被爆者を乗せて
 救援列車の記憶 1

原爆犠牲者の墓碑に水を手向ける初瀬和敏さん=佐世保市、西方寺

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 1 早 岐 風化する救護の歴史 知る人少ない墓碑

2009/08/11 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶 1

原爆犠牲者の墓碑に水を手向ける初瀬和敏さん=佐世保市、西方寺

早 岐 風化する救護の歴史 知る人少ない墓碑

被爆者を救おうと運行された救援列車。各地で住民らが懸命に救護に当たり、惨状はまぶたに焼き付いた。しかし、当時を知る人が減り、忘れ去られつつある。列車の記憶を掘り起こした。(敬称略)

被爆地長崎と直線距離で約50キロを隔てた佐世保市八幡町の西方寺。墓地の一隅に「長崎原爆犠牲者之墓」と刻まれた高さ1メートル余りの古い墓碑がある。

1945年の原爆投下から64年を迎えた9日。市内の歯科医、初瀬和敏(51)はひしゃくですくった水を墓碑に何度も掛け、焦熱に焼かれた犠牲者を悼んだ。「子どものころからこうしてお参りしてきたんです」

墓碑は53年、同市早岐地区の徳丸墓地(陣の内町)に建立された。正面の題字横には「佐世保市長 中田正輔」(46~55年在職、故人)の名がある。側面の碑文は判読できない部分もあるが、おおむねこう刻まれている。

「長崎の原爆に被災し当地移送せられた百六十余名中、手当の甲斐(かい)なく犠牲となられた方の内、無縁の九柱の遺骨を我(わ)が墓地に埋葬供養して参りましたが、かねての宿願が叶(かな)い、市長の題字をいただき時あたかも原爆八周年記念日に当たり石碑を建立した次第であります 杉竹茂雄記す」

初瀬和敏さん
原爆犠牲者の墓碑に水を手向ける初瀬和敏さん=佐世保市、西方寺
地図
経験のない極限の混乱に陥った中、複数の救援列車が多くの被爆者を乗せ9日から県央、県北地区へ向け走った。佐世保市の早岐駅でも翌10日朝以降、大勢が降ろされ手当てを受けたが、かなりの死亡者が出たとされる。

杉竹茂雄は当時、早岐で割烹(かっぽう)旅館を経営。警防団(現在の消防団)の分団幹部として被爆者の救護活動に携わったらしい。孫の初瀬は、杉竹の一人娘だった母(故人)から生前「(杉竹が)『遺族に代わって弔いたい』と、市長に題字を頼んで墓碑と水掛け地蔵を建てた」と聞いた。

杉竹は54年に58歳で死去。墓碑は64年ごろ、徳丸墓地の一部の道路工事に伴い杉竹家の墓と一緒に近くの新しい墓地に移転。同家の家系が絶えたため94年、初瀬が西方寺の墓地に持ってきた。

数年前、大病を患ったが、一命を取り留めたのは「先祖の善行のおかげ」と考える。「血を引く者として守っていきたい」と語る。

早岐では年月の経過と移転で、墓碑が存在したことを知る人は今ではほとんどいない。早岐郷土史研究会長の吉永満(81)は93年、地区の市合併50周年を記念し出版された「早岐郷土史概説」に掲載するため墓碑の写真を撮影。当時の調査で初めて存在を知った。

会員らで慰霊行事を営んだ覚えもあるが、その後墓碑は地区外へ。吉永は「住民が懸命に被爆者を助けた歴史が、早岐で忘れ去られるのは寂しい」と記憶の風化を嘆く。