復元 地図に墓標打ち立てる 平和誓い、空白を埋める
1970年春、長崎市松山町の爆心地公園近くの民家に中年男性5人が集まった。被爆時は軍需工場への動員などで自宅のある松山町を離れていたため、難を逃れた元住民たちだった。
声を掛けた内田伯(79)が切り出した。「原爆で悲惨な死に方をした松山の住民のため、そしてあの惨禍を二度と繰り返させないために、生き残った自分たちにできることをしたい」
家族5人を失った内田には戦後25年がたっても、心に空虚なすき間風が吹いていた。誰にも最期をみとられぬまま命をかき消された犠牲者たちの怨念(おんねん)に突き動かされるように、ある提案をする。閃光(せんこう)に消えたかつての松山の町並みを地図上に復元させよう-。それは、未解明の被爆の実態に迫るとともに、死者一人一人の墓標を地図に打ち立てることを意味していた。
7月、内田を会長に「松山町原爆被爆復元の会」が発足する。「ここに松尾さんの家があった」「ここは米屋だったね」。記憶を呼び起こして被爆前の世帯名や商店の屋号などを白地図に書き込む一方、散り散りになった関係者を捜し出し当時の家族構成や被災状況などを調べる地道な作業が市民運動として始まった。
取り組みは新聞でも紹介され、反響を呼ぶ。途中まで埋まった地図はその年の8月9日、情報収集のため平和祈念式典会場で公開され、多くの人が群がった。空白を一つ一つ埋めていく中で、死者たちが、そしてかつての町並みがよみがえる感覚だった。長崎市が71年、原爆被災復元調査室を設けたことも手伝い、復元運動の輪はほかの町にも急速に広がっていく。
ようやくの思いで消息をつかんでも、かつての住民ら関係者の反応は協力や激励ばかりではなかった。「今は嫁いで平和に暮らしています。被爆のことは誰にも話していません。もう、このような手紙を送らないでください」。「山里町復元の会」調査員だった深堀好敏(80)はこんな返事も受け取った。「家族を亡くした心の痛手や言うに言われぬ事情を背負いながら、戦後をみんな懸命に生きていた。同じ被爆者として、気持ちはよく分かった」。一家全滅の世帯も多く困難を極めたが、活動は80年、計48町の住宅91・8%を地図上に復元するなど成果を収めて区切りをみることになる。
「あの日のことを忘れたくない」。内田はそんな信念から、家族の魂が眠る松山の地に今も暮らし、被爆体験の継承活動を続けている。「この体が、この足が動く限り、被爆者として思いを伝えたい。もう二度と…」。爆心の丘で、青空を仰いだ。
被爆地・長崎に64回目の8月9日が巡ってくる。(敬称略)