責め苦 「母が身代わりに…」 亡きがらのそば感情なく
余燼(よじん)がくすぶる焦土に、ぼうぜんと立ち尽くした。人の原形をとどめぬ死体が、あちこちに転がっていた。龍智江子(79)は草履の下がひどく熱かったのを覚えている。
日本軍報道班員として長崎に入った山端庸介(故人)が、原爆投下の翌日、爆心地から300メートルも離れていない浜口町で撮影した一枚の写真がある。自宅跡にたたずむ少女は、当時15歳の龍だ。傍らに母親の亡きがらが横たわっている。
そのころ、長崎でも空襲が続いていた。あの日の朝、両親は疎開先を探しに出掛けようとしていた。病弱で目も悪い母親を龍は引き留めた。「空襲警報が鳴っても逃げ切らんよ。私が行くけん」。龍が父親と家を出て間もなく、原爆が自宅上空でさく裂した。
命からがら山中に逃げ込んだ龍と父親が浜口町に帰ることができたのは、翌日だった。廃虚の町に男女の区別さえ付かない死体。頭の骨に溶けてくっついたべっ甲の髪止めで、それが母親だと分かった。報国隊として動員されていた川南造船所からの手当で、龍がプレゼントしたものだった。
「母を見ても何とも思わなかった。悲しみとか哀れみとか。そんな気持ちの余裕なんてなかった」。極度の衝撃は感情を虚無にさせることを知った。あの日の朝まで一緒だった9歳の弟の骨は今も見つからない。被爆した父親は翌年、全身に黄疸(おうだん)を訴えて帰らぬ人となり、龍は独りぼっちになった。
「私が代わろうと言わなければ…。母が身代わりになってくれた。そんな思いで、ずっと生きてきた」。龍の声が涙に潤む。戦後、福岡県大川市に移り住んだ。「思い出したくない」とあの日の記憶を封印してきたが、母がくれた命の重みを伝えるため、この数年、地元で子どもたちに体験を語り聞かせている。
爆心地の松山町の自宅で、外出していた母親を除く家族5人を失った内田伯(79)もまた、責め苦を背負った半生だった。三菱兵器製作所大橋工場で被爆し、一命を取り留めた内田が自宅跡に戻ると、砕けた骨が石灰をまいたように散らばっていた。「いくら戦争とはいえ、こんなむごい殺し方があっていいのか」。唇をかんだ。
薄いちり紙を何枚も重ねたような塊。灼熱(しゃくねつ)にさらされた5歳の妹の骨だった。それは、吹いてきた風に乗って粉々に飛び去った。言いようのないむなしさが襲った。
「死にとうなか」。空襲におびえる弟が、父親に疎開を訴えたことがある。父親は「自分たちだけ安全な場所に逃げたら、非国民と言われるぞ」としかり飛ばした。あの時、自分が強く父親を説得していれば-。後悔の念は今も消えない。(敬称略)