光の塊 距離200メートル空気も焼けた 死体の上はいずり逃げる
「私の家はここにあった。近所は池田さんに銭田さん、中村さん。ここは公民館の『岡町倶楽部』。配給所にもなっていた」
長崎市岡町の復元地図に指をはわせていた久間ヒサ子(82)は遠くを見詰めるような目でつぶやいた。「みんな原爆で消えてしまった。亡くなった人を挙げればきりがない」
あの日、町内の防空壕(ごう)の排水作業に動員された。爆心地から、わずかに200メートル余り。2列になり、数日前の降雨でたまった水をバケツリレーでくみ出していた。
突然だった。光の塊が襲い、今まで聞いたこともないごう音が耳をつんざいた。空気も焼け付くほどの猛烈な熱風に、体は上に下にとたたきつけられ、気を失う。体の痛みでわれに返ると、暗闇の中に苦しそうなうめき声が響いていた。「逃げなければ…」。外からのかすかな明かりを目指し、息絶えた人々の上を必死にはった。「助けて」。妊婦が足をつかんだが、構ってはいられなかった。
外の光景にがくぜんとした。町は跡形もない。汗ばむ青空も、セミの鳴き声も消えていた。何が起きたのか-。放心状態で、黒焦げになった丸太のような死体にも一顧だにしなかった。
逃げ込んだ山里国民学校の防空壕。かろうじて即死を免れた人たちも、次々に死の深淵(しんえん)へと沈んだ。岡町の防空壕から一緒に避難してきた近所の女性のうめき声が、やがて聞こえなくなった。焼けた火ばしを当てられたように、やけどの体が痛む。ただ死を待つばかりだったが、3日後にようやく救護隊に助け出された。
仕事で町外へ離れていた父親は、岡町の防空壕で見つけた久間と年格好も同じ少女の亡きがらを、娘と勘違いし荼毘(だび)にふしていた。命脈を絶たれた被爆者は外見での判別が困難で、家族はわずかに焼け残った着衣やベルトの金具などで捜すしかなかった。
友人に預けていたために焼け残った唯一の家族写真がある。出征が決まった次兄が「もう、生きて帰ってくることはないかもしれない」と撮影に誘った。次兄は遺骨の入っていない白木の箱で戻ってきた。写真には、自宅跡で変わり果てた姿で見つかった妹もいる。わずか15歳。病死した母親に似て、色白の優しい少女だった。
両腕には今もやけどのあとがある。「人間の身勝手な行動で多くの人の運命を変えてしまったあの日のことは、決して頭から離れない」。だが、一方で戦後64年がたち、戦争や被爆を語れる体験者も少なくなった。「もう過去のことになっている。かげろうのように忘れ去られてしまうのではないか」。そんな寂しさにも似た思いを感じている。(敬称略)