地図 直前まで息づく営み 刻み込まれた世帯名、商店
長崎市平野町の長崎原爆資料館ホールに、1枚の大きな地図が掛かっている。
松山町の爆心地を真ん中に周囲約300メートルの地域だろうか。「平山」「森」「本多」-。金属板の地図には世帯名が一軒一軒刻み込まれ、銀行や新聞販売店、鉄工所、医院などの建物、浦上川や鉄道の線路も表示されている。
一見、資料館周辺の何の変哲もない地図だが、よく見ると、戦後の町名変更でなくなった山里町や駒場町の文字に気付く。そう、これは現在の図面ではない。この一帯が原爆の閃光(せんこう)に消える前、つまり今から64年前の町並みを復元したものだ。
1945年8月9日、1発の原爆が松山町の約500メートル上空でさく裂し、放射線と爆風を伴った巨大な火の玉が街をのみ込んだ。「爆心地付近では、あまりの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分まで蒸発した」。資料館のパネルはそう記述している。長崎市の原爆被災復元調査事業報告書によると、爆心地から500メートル以内に居住していた住民の90・68%が原爆で即死。軍需工場への動員などで不在だった住民を含めても、50年9月末時点での生存は、わずか0・26%しか確認されていない。
復元地図のほぼ中央に「内田」の名がある。松山町の目抜き通りに温灸(おんきゅう)院を開いていた内田伯(79)の家だ。今も同町に住む。
松山町は人家もまばらな寒村だったが、大正時代、近代工業都市を目指す長崎市へ編入されたのをきっかけに、姿を変ぼうさせる。路面電車の路線が町内を縦断する形で延伸。拡幅された通りには商店が軒を連ねた。内田は述懐する。「米屋に魚屋、菓子店、食堂、自転車屋に電器店、小児科や内科もあった。電停も近く、生活には便利な場所だった」。買い物客で活況を呈し、市内一の繁華街になぞらえて「第二の浜町」とも呼ばれたという。
41年12月。城山国民学校6年生だった内田は、真珠湾攻撃を学校のラジオで知った。開戦に教師は興奮し、級友は「やった。やった」と大声ではしゃいだ。「これからどうなるんだろう」。内田の漠然とした不安はやがて、現実となる。
市民生活は戦時一色となり、配給制で松山町の商店街も店舗を閉ざしていった。郊外への疎開が増えたが、軍需工場への通勤には好立地だったため、一方では空き家や空き部屋を求めて転入してくる市民も少なくなかったという。
あの日は酒としょうゆの配給日だったと内田は記憶している。朝からの空襲警報が解除されると、配給所には住民が列をなし、内田は動員先の三菱兵器大橋工場(爆心地から1・3キロ)へと急いだ。いつもと変わらぬ一日の始まりだった。(敬称略)
◇ ◇
地図上に復元された爆心地から約300メートル圏内の町。ここで被爆しながら奇跡的に助かったり、たまたま爆心地から離れた場所にいたため難を逃れた住民がいる。被爆から64年目の今、どんな思いを抱いているのだろうか。「消えた町」のかつての住民の元を訪ねた。