山口義雄(やまぐち・よしお) 「命ある限り」89歳の志 最高齢の「平和案内人」
「語り」の風景が、そこにはある。
長崎を訪れる人に、被爆の実相と平和の尊さを伝える長崎平和推進協会のボランティアガイド「平和案内人」。学生を含む110人の最高齢が山口義雄(89)=長崎市富士見町=だ。
被爆者ではない。だが、「戦争を体験し、原爆を憎む気持ちは人一倍」だという。
連合艦隊旗艦となった「長門」が竣工(しゅんこう)した1920年、北松今福村(今の松浦市)の農家に生まれた。学業優秀で、19歳の時に神奈川県相模原にあった陸軍工科学校(後に陸軍兵器学校と改称)を受験し、競争倍率約30倍の狭き門を上位の成績で合格する。お国のため、軍人になることに何の迷いもなかった。
卒業後は中国・嘉興に出征。3年間、死と隣り合わせの日々を過ごすも、母校教官への転属で生き残る。日本の敗色濃厚となった45年6月、派遣作業隊が編成され、向かった徳島。実戦部隊から集められた光学兵器の整備・修理を卒業目前の生徒らに実習させる毎日だった。
7月4日未明の徳島大空襲。旧市域の6割が灰となり、非戦闘員の市民が無差別に殺りくされ、犠牲者は約千人に上った。軍人の自分の命は、はなから捨てていた。だが、公園を埋めたおびただしい焼死体に、「戦争の何とむごいことかと憤りを覚えた」。山口の中で何かが崩れ落ちた。
「お世話になりました」。卒業を迎え、敬礼で巣立っていった10代の教え子は、任地の広島で原爆の閃光(せんこう)に消えた。義兄の弟は長崎の勝山国民学校の教諭だったが、長崎に原爆が投下されたあの日から行方が分からない。義兄は10日間、弟の亡きがらを捜し求めて焼け野原を歩き回ったが、遺骨は見つからなかった。肉親の最期の手掛かりさえ、原爆は奪い去った。
山口は戦後、原爆のつめ跡が残る長崎で建築士としてがむしゃらに働いた。日本の復興を願う一心だった。2005年、平和案内人の1期生になり、長崎原爆資料館などで活動を続ける。かつての軍国青年は今、「戦争の愚かさ、核兵器の廃棄を世界に訴えることは私たちの責務」だという。
案内する観光客に年齢を教えると、一様に驚くが、自身は最高齢との意識はない。「年を取ったという感覚はない。いつまでも若いつもりでいるから」。戦争を生き残った者として命ある限り、と思う。(敬称略)