松田 斉(まつだ・せい) 身近な光景 惨禍現実味
「核なき世界」を目指すと宣言したオバマ米大統領の演説は、停滞していた国際社会の核廃絶への歩みを突き動かした。ただ、北朝鮮やイランの核開発など難題は多く、道のりは平たんではない。「核なき世界」実現を後押しするため、戦争を、原爆を、そして平和を市井で語り伝える人たちに迫る。
原爆投下の翌日から長崎に入った日本軍報道班員らによって記録され、廃虚の街を克明にとらえた被爆写真。松田斉(53)=長崎市宿町=は当時の撮影地点に立ち、同じアングルで64年後の「今」にカメラを向け続けている。松田にとって、それは原爆と向き合うことにほかならない。
亡き両親の影響が大きいという。軍医だった父親は旧満州で敗戦を迎え、シベリアに3年間、抑留。過酷な生活にも命をつなぎ長崎への帰郷を果たしたが、母校の長崎医科大(爆心地から0・6キロ)があった浦上の街も、そこに暮らしていた市民や医大に助手として残った級友らの命も原爆は無慈悲に奪い去っていた。高等女学校の教員だった母親も広島原爆で教え子を亡くしている。そのことを両親から繰り返し聞き、戦争や原爆にまつわる記憶と体験はいつしか、松田の脳裏に刷り込まれていった。
「理論ではなく、感性で平和を感じ取ってもらいたい」と考える。2年前から始めた過去と現在の写真の対比は、それを具現化したものだ。本職は飲食業。カメラを扱ったことはほとんどなかった。これまで約30カ所を撮影し、双方を並べた写真展を企画してきた。
見た人は、ああ、この被爆写真が撮影された場所はここだったのか、と驚き、納得する。当時の写真だけでは、そこが長崎のどこなのか判断は難しい。それが今の風景と重ね合わせることで64年間の時間の空白がひもとかれ、惨禍が現実味を帯びたイメージとして迫ってくる。松田は言う。「原爆の惨状がいかにひどいものだったか、戦争がいかに愚かなことかを、自分たちが見知っている身近な光景から気づいてほしい」
当時の場所は探し出せても、林立するビルに遠景の山すら隠れ、面影が何一つ残っていないために撮影を断念することも度々だ。しかし、その変化も、実は松田が伝えたいもう一つのメッセージでもある。「街を廃虚にしたのは人間だが、焼け野原からの復興を遂げたのも人間。人のエネルギーがいかに素晴らしいかも知ってもらいたい」。対比させる写真には、人間が残した明と暗の営みがある。
「オバマ大統領の誕生で、『核なき世界』の希望が多少は見えた。でもまだ期待まではいかない。フォローアップと言えば大げさだが、自分にできることはやりたい」。だから、5年後も10年後も、自分スタイルの活動を続けている、松田はそう思う。(敬称略)