被爆樹とともに 記憶伝えた64年 4

操さんに代わり、平和の尊さを無言で訴え続けるツツジ=長崎市平野町、長崎原爆資料館

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被爆樹とともに 記憶伝えた64年 4 長崎原爆資料館のツツジとマツ =爆心地から1.1キロ地点で被爆 “生の声”を伝えて

2009/07/25 掲載

被爆樹とともに 記憶伝えた64年 4

操さんに代わり、平和の尊さを無言で訴え続けるツツジ=長崎市平野町、長崎原爆資料館

長崎原爆資料館のツツジとマツ =爆心地から1.1キロ地点で被爆 “生の声”を伝えて

長崎市油木町で喫茶店を営む池田孝通さん(56)の父操さん(故人)は被爆40年の1985年、同市の国際文化会館(現・長崎原爆資料館)に被爆したツツジを寄贈した。96年には同じく被爆したゴヨウマツを寄贈。2本とも原爆の傷跡を引きずりながらも青々としており、現在でも樹勢は衰えていない。

操さんは原爆で、妻や生後間もない長男らを失った。操さんが家族の死を知ったのは1年後、出征先の中国から戻ってからだった。倒壊した実家には、ツツジやマツなどの樹木だけが残されていたという。「さぞがくぜんとしたことだろう」と孝通さん。

再婚後、孝通さんが生まれたが、父はあまり多くを語らなかった。しかし操さんは、何があっても被爆した樹木を切ることはなかったという。孝通さんは「今思えば、被爆した樹木はすべて残されている。家族の思い出や、失った悲しみなど、いろいろな思いが重なる形見のようなものだったのだろう」と父の心情を思いやった。

「樹木自身の寿命もあると思うが、生き続けて“生の声”を伝えていってもらえたら」と孝通さん。仕事の都合上、なかなかツツジやマツの所には行けていないという。「今度、見に行ってみようかな」とつぶやいた。

マツを寄贈した際に操さんは「被爆者同様、原爆に耐え戦後50年を生き抜いたゴヨウマツの老木を多くの人に見てもらいたい」と長崎市にコメントしている。

現在もツツジとマツは、同館の一角で、操さんに代わって来館者に平和の尊さを無言で訴え続けている。