鍋に拾った母の骨 
 =築地重信さん 静止した記憶= 下

被爆体験や核を語り合う糸口に-「語り部画」への思いを託す築地重信さん

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鍋に拾った母の骨 =築地重信さん 静止した記憶= 下 「語り部画」に生きる 「あんな少年時代 ごめん」

2008/08/07 掲載

鍋に拾った母の骨 
 =築地重信さん 静止した記憶= 下

被爆体験や核を語り合う糸口に-「語り部画」への思いを託す築地重信さん

「語り部画」に生きる 「あんな少年時代 ごめん」

母さん 俺
戦災孤・老になって、やっと
見えて来るものがあるんだ-
この浦上からね…
(「母の風景 築地重信画集とつぶやき」から)

戦災孤児を集めて開かれた養護施設「聖母の騎士園」(現諫早市小長井町)に入った築地重信さん(73)。一九四九年、施設は火災に遭い、大村の旧海軍空廠(しょう)跡へ移転、築地さんは地元の中学に転入した。

食料難は相変わらず。園から届いた弁当箱の中身は、きな粉をふりかけたところてん。「恥ずかしくて、みんなの前で開ける勇気がなかった」。誰ともなく「築地に弁当ば分けてやれ」という声が出た。「ぼくのふたに、みんなが弁当箱の隅のご飯を三角に取って分けてくれた。うれしかった」。思い出すたびに目が潤む。

後妻の祖母に家を追われたのは、引き揚げの連れ子が加わった家族の中で、自分一人がクリスチャンでなく、厄介者扱いされたためであり、キリスト教には複雑な思いを抱いていた。だが、施設はカトリック。「信者でないと損ばい」と言う友人の言葉に受洗を決めた。「聖職者になる」。必死に勉強、施設からは難関だった聖母の騎士神学校に入学。司祭への階段が順調に開けているかに見えた。

道は再び暗転する。上海で再婚、当時六歳の築地さんを“見捨てた”実母が異父弟を連れて戻り、同じ聖母の騎士内の施設に分かれて入所した。

苦悩が始まった。実母にさしたる情はない。だが異父弟は違う。「戦争に巻き込まれた犠牲者でもある年下の弟に、自分と同じつらさや惨めさを強いていいのか」「身近な者も救えず、聖職者を目指す資格があるだろうか」。俗世で生きる選択をし、実母と異父弟を養った。

仕事は何でもやったがまだ十代後半、重圧にあえいだ。思案の末、航空自衛隊へ。「戦争で不幸になった自分が『軍』とは」と思ったが、糧を得るこれ以上確実な方法は思い浮かばなかった。月給四千八百円は全額送金した。

困難は続く。二十二歳、白血病発症。面倒を見た異父弟は結局実父の元へ去った。失意のうちに帰郷、地元の文具店に就職して、ようやく光が見えた。結婚。二人の娘に恵まれ無事定年を迎えた。実母は十五年前に逝った。

山里小の還暦同窓会。被爆者が「語り部」となり、平和の尊さを訴えていることが話題に出た。「僕らも語り部を始めようや」。仲間たちから「絵の方がリアルで、子どもに伝わりやすい」と促された。文具店に勤めて間もなく、二科会会員の馬場一郎氏に出会い師事していた。「あの巨大な出来事を、記憶に」。被爆遺構が次々に姿を消す中、がれきの浦上天主堂などを描き、「語り部画」と名付け心魂を注いだ。

「母さん 俺が絵を描くなんて知らなかっただろう-! 母さんと浦上への思い 執念がそうさせてくれたんだ-きっと。複雑な思いだけど…」(同書から)

原爆で激変してしまった人生。命があっただけ幸運かもしれない。でも「あんな少年時代はもうごめん」と何度も思わずにいられない。「僕のような体験をした人間が一人でもいなくなるのが、平和というものではないのか」。筆に問い掛けを込め、育ての母だった叔母、「浦上の母」への尽きぬ情愛を抱きながら、きょうもキャンバスに向かう。