10歳、原子野を自宅へ “黒い塊”に立ち尽くす
長崎原爆で育ての母や祖父を失い、原子野に一人取り残された十歳の少年-。惨劇を伝えるすべを求めて、長崎市戸石町の築地重信さん(73)は、被爆体験を克明な絵にして再現、「語り部画」と自ら名付け、描き続けている。二〇〇二年に出版した画集「母の風景」収載作に未発表の作品を加え、築地さんの“静止した記憶”をたどった。
あの時、焼け残ったお鍋に
泣き啼(な)き拾った母さんの骨
]
わずかな片(かけら)で母の姿にならない
(「母の風景-築地重信画集とつぶやき」から)
浦上に戻った十歳の築地さんの目に飛び込んできたもの、それは油のように鈍く光る異様な一つの塊だった。
防火用水と崩れた塀、炊事場の「くど」や五右衛門風呂の位置に目安をつけ、焼け野原の中に自宅を捜した。
がれきに半分埋まった祖父が、ちぎれた上半身だけの無残な形であおむけに転がっていた。歯が白く浮き、食いしばった奥歯に金歯が見えた。廊下と思われた所に、同じ黒っぽい塊があった。これが実母に代わって育ててくれた叔母、「母さん」と思うしかなかった。
川平地区木場に疎開して助かった祖母と二人、焼け残ったトタン板をたたきのばし、二人を焼いた。転がっていた鍋を拾い、骨を入れた。骨盤らしい、わずかな骨。これが母なのか。信じたくなかった。かけらになった母は、鍋の底でかすかに鳴った。
一九四五年八月九日、午前十時すぎ。町内会長をしていた祖父の言いつけで、浦上第一病院(現聖フランシスコ病院)と山里中の間にある集落へ書類を届けるよう頼まれた築地さんは、本尾町の家を出た。「気を付けていってこいや」。背中越しに聞こえた声が、祖父の最後の言葉となった。
書類を届けた後、農家の土間で婦人会の人たちが、わら草履など戦地へ送る慰問品を作っているのを眺めていた。出してくれた麦茶を土間に腰掛けて飲もうとしたその時、閃光(せんこう)が走った。ごう音、爆風。家がつぶれ、みんな外に飛び出した。築地さんは反射的に土間の真下に掘ってあったイモ釜に飛び込んだ。
気を失っていたが、集落の人に救出された。昼間だというのに、あたりは薄暗く、煙が立ち込め何も見えない。言われるままに本原あたりの防空壕(ごう)に入った。
耳のない人や、やけどで皮膚の垂れ下がった人、頭髪が燃えて黒くなった人たちが横たわり、うめいていた。「何が起こったんだろう」「母や祖父のもとに戻らなければ」。気ばかり焦った。
家に向かおうにも、街はまだ燃えていた。熱くて近寄れない。壕内では負傷者が次々に息を引き取り、腐敗して異臭を放つ。三日目。外に出ると、頭上を低空飛行する米軍機が見えた。後で分かったことだが、戦果を空撮していたらしい。「もう我慢できない。撃たれても、どうなってもいい」。半分やけを起こして腹を決め、五日目に壕を出た。
原爆落下中心地から五百メートル、浦上天主堂下に自宅はあった。祖父は上海を中心に海軍の仕事などを請け負うサルベージ会社を経営。一家は恵まれた生活をしていた。
上海生まれの築地さんは九歳の時、長崎に引き揚げてきた。父の戦死後、実母は再婚。築地さんは母方の祖父に引き取られた。愛情を注いでくれた叔母の「母さん」との暮らしは穏やかだった。だが原子野にすべては失われた。