苦難乗り越えて
 =被爆者・吉田勝二の63年= 5(完)

紙芝居上演後、子どもたちに語り掛ける吉田勝二さん=長崎市興善町、市立図書館

ピースサイト関連企画

苦難乗り越えて =被爆者・吉田勝二の63年= 5(完) 発信 「伝える責務」語り部に

2008/08/07 掲載

苦難乗り越えて
 =被爆者・吉田勝二の63年= 5(完)

紙芝居上演後、子どもたちに語り掛ける吉田勝二さん=長崎市興善町、市立図書館

発信 「伝える責務」語り部に

六月二十九日。勝二は北海道にいた。親子連れなど百二十人が詰め掛けた札幌市役所のロビーで、勝二の隣に座る平和案内人・朗読グループの白鳥純子(59)がゆっくりと口を開いた。「紙芝居、私たちが伝える被爆体験」

主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)に合わせ開かれた原爆展で、勝二の被爆体験を描いた紙芝居が上演された。初めてとなる県外での上演に、勝二は原爆展の開幕セレモニー終了を待ちわびた。家に閉じこもったかつての勝二はもういなかった。

紙芝居を食い入るように見詰める子どもたち。上演後に勝二を取り囲んだ来場者からは、「あんな差別を受けたらと考えると怖い」「戦争のない世界を」「写真を見るより伝わった」-。紙芝居は好評だった。

かつて勝二は、人前で被爆体験を語ることに抵抗があった。語り部にならないかと誘われる度、にべもなく断った。「問題は顔。人から見られるやろ」

だが、勝二は分かっていた。「泣いてもわめいても、もう元の体には戻らない」そして、考え続けた。「ならばどうすべきか。被爆時に行動を共にした友人六人はみんな死んだ。だが私はまだ、生きている」。結果、たどり着いた。「私には、平和の尊さを皆さんに伝えていく責務があるのではないか」-。

そして一九八七年、長崎平和推進協会・継承部会員として語り部活動をしていた古い友人に誘われ、人前に立つことを決意する。「今の平和がいかに大事かを話して、おいちゃんのようになりたくなかなら戦争をしてはいけないって。長崎の被爆者ば最後にせんばって」。そのときの心境をこう語る。

初めはやはり、抵抗があった。幼い女の子に顔を見られ泣かれたことがあったので、女子校での講演は気が進まなかった。それでも、活動は続けた。「伝えたい」との一心で。

被爆六十年に当たる二〇〇五年から三年間、長崎市立桜馬場中で講話した。勝二の体験に衝撃を受けた生徒たちは、それを絵で表現し文章を付ける取り組みを始めた。時として、勝二の体験と、中学生の思い描く被爆の状況とは乖離(かいり)する。勝二は度々学校を訪れ生徒に実相を繰り返し伝えた。〇七年五月、取り組みは絵本として結実。タイトルは「私たちが伝える被爆体験」。

勝二は絵本を紙芝居に仕立て、これまでの講話に加え、平和案内人とともに紙芝居の読み聞かせを続けている。長崎市は本年度、絵本をすべての市立小、中学校に配布した。勝二の被爆体験は、原爆を知らない中学生の手でさらに広まった。

紙芝居上演後の講話で勝二は、必ずある言葉を口にする。あの日から苦しみ続けたからこそ言える。苦しみ続けたからこそ願う。苦しみ続けたからこそ伝えたい。そしてそれは、紙芝居を締めくくる言葉でもある。

「平和の原点は、人の痛みがわかる心をもつことです」(敬称略)