苦難乗り越えて
 =被爆者・吉田勝二の63年= 4

芽生え(写真はイメージ)

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苦難乗り越えて =被爆者・吉田勝二の63年= 4 支え 毅然とした肉親励みに

2008/08/06 掲載

苦難乗り越えて
 =被爆者・吉田勝二の63年= 4

芽生え(写真はイメージ)

支え 毅然とした肉親励みに

「家におってもしょんなか。外に行ってきなさい」。家に閉じこもる勝二に母は何度も促した。月日が流れ落ち着きを取り戻した勝二は百メートル、二百メートルと少しずつ、少しずつ外を出歩く“トレーニング”を重ねた。

「こがん顔なら死んだがまし」。外出に慣れてきたころ、散歩から戻り、ふと見た洗面台の鏡に久しぶり映し出された顔は「真っ黒焦げだった」。もともと足から移植した皮膚。汗腺がない。日差しに照らされても、汗をかくことができず、退院後よりも黒みを増した。「もう外に出たくない」。それでも母は励まし続けた。「外に出てこんね」

徐々に外出できるようになり、十七歳のとき復学。卒業後は市内の食料品卸問屋に勤めた。就職してからも差別されたり、好奇の目にさらされることは以前と変わらなかった。

店頭で接客をしていたとき、若いお母さんが子どもを連れてきた。子どもは勝二の顔を見て、突然泣きだした。勝二は耐えるしかなかった。

「人に会うのが一番つらかった。(同じ状況に)なったもんじゃないと分からないよ」

会社内でもひどい差別にあったという。「悪口とか、そんなんじゃない」。勝二は会社のことについては多くを語ろうとしない。ただ、毎日のように家に帰って「もう会社に行きたくない」といって母に泣きついたという。そのたびに母は勝二をなぐさめ、励ました。

三十歳で結婚。二人の男の子をもうけた。学校の行事に顔を出すのは気がすすまなかったが、ある時、次男にせがまれて運動会を見に行った。グラウンドで昼食を取っていた勝二に気付いた子どもが、勝二らの方をジッと見詰め、次男に向かって口を開いた。「わんがたの父ちゃん恐ろしか。真っ黒して」

ショックだった。勝二は、原爆に遭い顔にケロイドができた女性を知っていた。女性の子どもは、女性の顔のことでいじめられた。それを苦にした女性は自殺。そのことが頭をよぎった。「やっぱり来んかったらよかった」。後悔の念でいっぱいになった。そのとき、次男が言った。「父ちゃんは原爆でやられたと」。毅然(きぜん)と言い返す次男の姿に「涙が出るほどうれしかった」。

肉親に支えられ、勝二は閉じこもることも、泣くこともなくなっていく。しかし、人前で被爆体験を語ることはなかった。人前に立てば、視線を集めることになる。顔のことがどうしても気になった。

一九八三年、長崎平和推進協会が発足する。被爆者の高齢化が進み、被爆体験の継承が課題となっていた。壮絶な被爆体験を持つ勝二のもとにも協会の語り部としての活動を促す依頼が来る。(敬称略)