苦悶 好奇の目避け閉じこもる
勝二は、八月十日以降のことを鮮明に覚えていない。原爆に遭ったその夜に意識を失った。その後、どうなったのかは、ほとんど母や姉に聞いた話だ。
十日、勝二は諫早から救援に駆け付けたという女性に、防空壕(ごう)に運ばれた。そこで応急処置を受けた後、市立長崎商業校に一時収容。同校には、全身に包帯を巻いた無数のけが人が横たわり、助けにきた母は、勝二かどうか半信半疑のまま、自宅まで連れて帰った。
自宅では蚊帳の中に寝かされた。体中から流れ出るうみにハエがたかるからだ。それでも、傷口には無数のうじがわいた。母は割りばしで取ろうとするが、割りばしの先端が傷に当たるたびに勝二は大声を上げた。母は仕方なく火であぶったはさみで、うじがわき、腐った皮膚を切り取った。
十一月ごろ大村海軍病院に入院。はっきりと意識を取り戻したのは十二月になってからだった。「気付くまでは極楽さ」。その後のさまざまな苦痛を考えれば、正直そう思えた。
ひどいやけどを負った顔の右側には、太ももの皮膚を移植することになった。だが、うみがわき上がり、皮膚がつかず二度失敗。三度目でようやく成功した。
術後のガーゼの付け替えは週二回。血が染み込み固まったガーゼを、ピンセットでつまみ一気にはがす。その瞬間、「顔の半分が飛んだ」かと思うほどの激痛が襲う。少しでも痛みを和らげようと母は、付け替えの二時間前から温かいタオルで患部を温めてくれた。
大村で一年余り治療を受け、ようやく退院。だが、苦しみが果てることはなかった。いや、本当の苦しみはこれからだった。
列車内での耐えられないような冷たい視線。自宅に帰ってからは顔のことばかり考えた。なぜ被爆したのか。なぜ、顔にやけどを負ったのか。なぜ、皆は好奇の目で見るのか。人目を避けるような生活が始まる。
勝二の家には風呂がない。夏は行水で済ませたが、寒くなると銭湯に行くしかない。銭湯には昼ごろ出掛けた。この時間帯が一番、人が少ないからだ。
あるとき、銭湯に行くと、何人かのお年寄りが気持ちよさそうに頭にタオルを乗せて湯船につかっていた。勝二が入ると、和やかな雰囲気が一変する。皆、けげんな目をして勝二から離れていく。気が付くと湯船にいるのは勝二だけだった。一人、壁に描かれた富士山の絵を見つめた。
髪を切りにいく勇気もなかった。伸ばし放題になった髪を見かねて、母が開店前に切ってもらえるよう理髪店の店主に頼み込んだ。髪を切ってもらいながら、店主に聞かれるままに被爆体験を話していると、いつの間にか開店時間になり、ほかの客が入ってきた。その客は鏡越しに勝二の顔をジロジロと見つめた。「来なければよかった」。悔しさが込み上げ、家に帰って、また、泣いた。そして閉じこもった。(敬称略)