帰宅 焼けた顔 冷たい視線に涙
昨年五月、長崎市内の中学生の手によって一冊の絵本が完成した。絵本のモデルとなったのは被爆者の吉田勝二(76)=同市片淵二丁目=。絵本は紙芝居に形を変え、県内各地で上演。今年六月には、北海道洞爺湖サミットに合わせ札幌市で開かれた原爆展でも披露された。原爆の痛みと偏見に苦しみながらも、自らの体験を子どもたちに伝え続ける吉田勝二。その生涯に迫る。
「道の尾、道の尾ー」。到着駅を告げるアナウンスが響く。母親が待つ長崎まであとわずか。原爆投下から一年半。列車の窓から眺めると、がれきは既に撤去され、バラックがポツリポツリと立つ。十五歳の勝二は被爆地である長崎に戻れることがうれしかった。多くの被爆者がいるであろう長崎に帰ることが。列車に乗ってから心を覆っていた重苦しさが、少し軽くなったような気がした。
顔に大やけどを負い運ばれた大村海軍病院で、太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術は成功したが、移植部分の皮膚の色は黒く、目立った。一年余りの入院生活を終え、退院できることになったが、顔半分は黒いまま。だが、病院ではあまり気にならなかった。
「自分の顔がどうなったかは知っとった。手術後に先生が鏡ば見せたけん。うんざりした。その後は鏡は見らんやった。でも、病院ではどうでもなかった。同じようなけが人ばかりやけん」
「帰り道、少しは人から見られるかも」その程度の考えだった。
退院の日、石段を上り大村駅の待合室に入った。ガヤガヤと騒がしかった室内が、とたんに静まり返り、全員の視線が勝二に集まった。好奇か軽蔑(けいべつ)か同情か。視線に耐えられず、待合室の隅っこでうずくまって下を向き、泣いた。
「退院してからが苦労さ。人から見られるとやけん。悲しくて悲しくて涙の出た」
佐世保からきた列車に飛び乗った。だが、各駅で乗り込んでくる客も容赦なく勝二に視線を浴びせた。長崎までの列車内。二人掛けのいすに腰掛けた勝二の隣の席は、最後まで空いたままだった。通路も込み合うほど乗客でごった返していたのに。
道の尾まで来て外を眺め、少しだけ気が落ち着いた。「道の尾でもこれだけの焼け野原。長崎はもっとひどかろうけん、自分と同じようなけが人が大勢いるに違いない。この視線が注がれることも終わる」、と。
待ちわびた長崎駅。だが、ホームで乗客を出迎える人たちの反応も大村駅の待合室のそれと変わらなかった。
「もう長崎にもけが人はおらんやった。声を出して泣いたよ」
うちひしがれた勝二は、こらえ切れず走って改札口を飛び出た。自宅の馬町まで歩いて約二十五分。これ以上、人前に自分の顔をさらすことに耐えられなかった。人通りのほとんどない西坂から山を越え、自宅に向かった。
「おかえり」。聞き慣れた母の声。声を上げて泣きじゃくった。泣きながら自宅までの道のりを母に語った。八月九日、原爆が落ちたあの日を恨んだ。(敬称略)