手帳
 =被爆63年・長崎= 5(完)

私は被爆者 法と現実はざまで闘う

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手帳 =被爆63年・長崎= 5(完) 私は被爆者 法と現実はざまで闘う

2008/08/02 掲載

手帳
 =被爆63年・長崎= 5(完)

私は被爆者 法と現実はざまで闘う

私は被爆者 法と現実はざまで闘う

つえを突いて歩く平瀬次郎吉(77)=長崎市上小島四丁目=の歩調に合わせ、中島勇(75)=同市椿が丘町=は長崎地裁玄関に続く階段をゆっくり上った。

平瀬のしわの入った顔に昔の面影がかすかに残る。六十三年前の八月九日に大瀬戸から長崎まで乗船した際にいた第5大生丸の船員。白いカバーが付いた分不相応とも思える大きな船員帽をかぶり、客室をのぞき込んでいたあの人に間違いない。

中島はあらためてそう思い、四〇一号法廷の原告席に座った。

平瀬も傍聴席の隅っこに腰を下ろし、中島を見てあの日のことを思い出した。畳敷きの三等船室にいた少年と母親。カーキ色の国民服を着た少年は、切符を確認する際に顔を見た。「同い年か少し年下かな」。そんな印象は今もしっかり覚えている。

「開廷します」

七月十四日午前十一時。裁判長の須田啓之がそう告げて、中島の手帳取得と被爆事実を公的に認めさせるための闘いは始まった。

あの日以来、再会することのなかった二人。引き合わせたのは本紙だった。

毎週一回掲載している被爆体験の聞き書きシリーズ「忘られぬあの日 私の被爆ノート」。二〇〇三年七月三日付で中島の体験が載った。欠かさず切り抜いている平瀬は「あの時の少年だ」とピンときた。

船を降り、大波止の近くの旅館の階段で被爆したこと。日見峠で黒い大粒の雨が降ったこと。そして、被爆を証明してくれる人が見つからず取得をあきらめた-と記事にはあった。すぐに連絡した。中島は平瀬の力を借り、〇五年二月に手帳を申請した。

だが-。認められなかった。

理由は、中島の養母が生前、引き揚げ者の特別交付金を受給するため、中国からの帰国日を一九四五年八月十二日として申請していたことや、大波止の波止場で被爆した平瀬の手帳の記載内容が「稲佐町の自宅」となっていたことが、いざとなって壁になった。

その時分かったこともあった。申請時の市の対応だ。「端からうそとしかとらえられていない。もう少し事実を詰める作業をしてもらえたら、きっと真実だと、私が被爆者だと分かるはずなのに…」。もどかしそうに語る。

被爆したのに手帳がもらえない-。長崎原爆被災者協議会の山田拓民もそうした現実に立ちすくむ“被爆者”を嫌というほど見てきた。

証人がいない。証明できる公文書がない。母親が子どもの将来を考え、あえて「一緒にいなかった」としたために、いざ取ろうとしても認められない-。「こうした人こそ救ってあげないといけないのだが…」

中島は口頭弁論が始まったいま、こう考える。私には被爆者になる資格がある。この裁判はただ、その権利を追認させようとしているだけだと。

六月末現在、県内で手帳を持っている人は六万三千四百三人いる。この数は「原爆に遭った人」ではない。法と現実のはざまにいる中島のような“被爆者”がいる。このまちにきっとたくさんいる。(敬称略)