呪縛 先輩の一言が解き放つ
昨年十月。旧制長崎工業学校(現・県立長崎工業高)の卒業生が開いた座談会。先輩の一人が言った。
「森田君、まだ取っていないの? どうして」
森田英世(77)=長崎市小江原一丁目=は「そうですねえ…」と返事を濁した。同じ年代の参加者はほとんどが手帳を持っている。それもそのはず。行動に多少の違いはあるにせよ、動員学徒として長崎市内にいたのだから。
森田には呪縛(じゅばく)があった。県庁に入り、手帳の申請が始まったころ。「取っとかんね」と同僚に促され申請しようとした。だが、被爆者でない別の同僚から心無い言葉を浴びた。
「手当をもらうつもりか。そがんまでして国から金ば取りたかとか」
むっとした。そんな気持ちからではない。手当なんか知らないし、実際、その時代はまだ健康管理手当などなかった。それが「被爆者に対する感覚だ」と思った。わき起こる憤まんを胸の奥底にしまい、手帳を取る気持ちに封印をする。
昭和二十-三十年代。偏見や差別に悩む被爆者たち。ある人はこう語った。
「小学校に上がると、頭の傷を見た担任教師が私に『カッパ』とあだ名を付けた。出席を取るときも『カッパ君』と呼ばれ悔しかった。ほかの児童が宿題を忘れたりすると罰として私の隣に座らせた(中略)傷が目立たなくなるとあだ名は『ゲンバク』に変わった」(本紙聞き語りシリーズ「忘られぬあの日 私の被爆ノート」二百七十三回から)
そんな時代だった。森田はこう言葉を継ぐ。
「職場で原爆の話は一切しませんでした。できませんでした。まゆ毛が抜けたり、黄疸(おうだん)が出たり、体がどれだけきつくても黙って仕事をしました。だって、空気が違ったんです。持っている被爆者観が違ったんです」
あの日。田手原町のこしき岩。同級生ら百五十人と上陸戦に備え穴を掘っていた時に爆風を受けた。翌日からは上野町の学校に通い原子野に立ちすくんだ。
経験した人にしか分からない原爆の苦痛。同僚の言葉はその痛みに追い打ちを掛け、重層をなした。
それが-。
気持ちに光を当ててくれたのは冒頭の先輩だった。
「証人見つけたよ。これが最後のチャンスかもしれないよ」。そう励ましてくれた先輩。人のつながりや情の大切さをしみじみ思う。と同時に流れた歳月も。
「もういい年なんだなあって」
七月四日、手帳を申請した。市役所の職員は「半年ぐらいかかりますよ」と言った。申請者が多いらしい。見渡せば同じ書類を持った人が横にも後ろにも。
それぞれがそれぞれの六十三年を生き、同じ日に、同じ窓口にたどり着いた。自分が被爆者であるという事実を手帳に記すために。
順番待ちの女性はどんな人生を歩んだのだろうか。(敬称略)