閉校 原爆の痛手引きずり
「常清の皆さん、大浦の旧清心女学校で授業を再開します」
終戦間もない一九四五年九月初め、常清高等実践女学校の再建を知らせるポスターが長崎市内各所に張り出された。南山手町にあった姉妹校の旧清心はこの時、既に廃校。原爆で校舎が壊滅した常清は、神田貞子校長ら教職員と大勢の生徒を失いながらも廃虚の中から何とか立ち上がろうとしていた。
一方、生き残ったものの、頼れる肉親がいなくなった女学生たちは戦後の混乱の荒波に放り出され、もがき苦しんでいた。
「学校が始まったよ」。三年生だった井手久枝(77)は路面電車の中で、乗り合わせた級友から授業の再開を知らされた。両親ら家族八人を亡くし、生きていくため、摘み取った花を売りに青空市場へ向かう途中だった。みすぼらしい自分が惨めで恥ずかしかった。
復員した五歳上の兄と二人、掘っ立て小屋で身を寄せ合って暮らした。学校に通い出したことに気付いた兄は、勤務先からもらってきた古紙で手製のノートを作り、黙ってテーブルに置いてくれた。だが、教科書もなければ、月謝を払うお金もない。被災を免れた級友たちの笑顔が恨めしく、休み時間も学校の隅で一人、浮いたように過ごした。「どうやって食べていけばいいのか、その日、その日を生きるのに一生懸命だった」。四年への進級を前に退学届を出し、その後の人生を歯を食いしばって歩んだ。
井手が学業を断念したころ、卒業生の寺田宗子(79)は同級生と二人、上野町にあった常清の跡地を訪ねた。「みんなの冥福を祈りに行こう」。どちらともなく誘った。れんが造りだった修道院の残骸(ざんがい)だけがポツンとあった。
「この辺りにピアノがあった。ここは裁縫の教室だったね」。目を閉じると楽しげな笑い声が聞こえてきそうな気がした。だが、目の前には焼け野原しかない。「学校もつぶれた。寂しいね。哀れだね」。静かに手を合わせた。涙が止まらなかった。
常清は四八年十月、念願だった上野町の跡地に戻る。古材で間に合わせた校舎。それでも、関係者の喜びはひとしおだった。
だが、原爆の痛手はあまりにも大きく、復興の道のりは険しかった。時代はまだ混乱のトンネルから抜け出せず、新たな教職員、生徒を確保するのも困難だった。将来の見通しが立たない中、経営難から四九年三月、最後の卒業生を送り出して閉校。校史を閉じた常清は、やがて人々の記憶からも消えていった。(敬称略)