現実 弟妹の遺骨見つからず
死を逃れた常清高等実践女学校の生徒にも、つらい現実が待っていた。三年生だった井手久枝(77)もその一人だ。
原爆の閃光(せんこう)に消えた多くの級友と一緒に毎日、三菱長崎造船所の軍需工場だった県立盲唖学校(爆心地から〇・六キロ)で働いた。八月九日の朝は岩見町の家を出た直後に警戒警報が発令。引き返そうか迷ったが、反対方向の稲佐署へ向かった。井手ら一部の生徒は警報時、救護班員として署に出動するよう指示されていたからだ。それが運命を分けた。
敵機音に驚き、逃げ込んだ署の防空壕(ごう)で被爆。爆風で数メートル吹き飛ばされた。直撃弾にやられたと思うほどの衝撃だった。
家路を急いだ。街は見る影もなかった。電車はひっくり返り、投げ出された乗客が無残な姿をさらしていた。途中、赤ん坊を抱いたまま放心状態で座り込んでいる女性と目が合った。「助けて」。懇願し脚にすがりつく女性を振り払って逃げた。恐怖で正気を失っていた。「自分のことで精いっぱい。周りのことなんて考えられなかった」
九人が暮らしていた自宅は倒壊し、家にいた姉と妹が圧死。残りの家族は救護所が置かれた新興善国民学校に収容された。ひしめく負傷者のうめき声と蒸し暑さ、異臭が鼻を突く室内。焼けただれ、動く力もない患者の体をうじ虫がはい回り、肉を食いちぎった。
薬も不足し、手当てらしい手当ては望めなかった。家族は一人、また一人とついえた。「中学生になったら予科練(海軍飛行予科練習生)を志願して(フィリピンで戦死した長兄の)敵を討つ」。口癖のように言っていた末の弟は、平和な世の中を知らないまま六年の短い生涯を閉じる。八月二十九日、看病に疲れた井手が救護所に来て初めて横になった間に最後の母親も息絶え、八人全員がいなくなった。涙も出なかった。
混乱と自失の中、末の弟と十二歳だった妹の亡きがらの所在が分からなくなった。当時の看護師の手記などには、遺体は救護所内の安置所から車に積み重ねられて運び出されたり、前の空き地で昼夜なく焼かれたとある。戦後、市役所に何度も確認を求めたが遺骨は見つからなかった。「堪忍してね」。井手は墓前で家族にわび、今も自分を責め続けている。
長崎市の平和公園にある市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂。長崎原爆で一家全滅するなどした遺骨八千九百六十一柱が安置され、ほとんどは誰の骨かも分かっていない。その数だけ、井手が体験したような悲劇があったのだろう。だが、それさえも原爆の被害全体からすればほんの一握りにすぎないのだ。(敬称略)