前夜 修道服からもんぺに
二枚の写真がある。
一枚は太平洋戦争開戦前に撮られた入学式の集合写真。もう一枚は一九四四年、その生徒たちの卒業記念写真だが、違いは明らかだ。ベールに修道服だった校長らは和服に姿を変えている。へちま襟の国民服でカメラに向かう女学生らの表情もどこか硬く、写真からはそこがカトリックの学校だったことをうかがい知ることはできない。
当時、学校は勉学の場ではなくなっていた。女学生たちは動員先の軍需工場で毎日、汗とほこりにまみれた。「卒業に感動して涙を流す雰囲気も余裕もない。国のために働くことが当たり前の時代だった」。小幡悦子(79)はそうつぶやきセピア色の自分を見詰めた。翌年、三菱兵器茂里町工場(爆心地から一・二キロ)で被爆し、六十三年後の今も後遺症に苦しむことになるなど知る由もなかった。
長崎市上野町。浦上天主堂そばに、常清高等実践女学校はあった。歴史は一八九〇年、長崎初のカトリックの小学校として開校した三成女児小にさかのぼる。
常清の校章には二本のユリが描かれていた。下を向くユリのように、謙虚に生きなさいとの教えが込められていたという。多くの女学生たちが希望に胸を膨らませていたに違いない。だが、時代は容赦なかった。
四一年十二月。その日は校内試験だったが、全員が教室の外に集められた。「何だろう」。顔を見合わせる生徒たちにシスター(修道女)の神田貞子校長は一呼吸置いて切り出した。「戦争が勃発(ぼっぱつ)しました…」。前列にいた寺田宗子(79)によると、ベールで神田の表情は読み取れなかったが、伏し目がちだったという。
国は宗教教育の制限と国家主義教育の強化を徹底した。神田を知るシスターで、開戦当時、カトリック校ではない県立長崎高等女学校の生徒だった井手愛子(82)には、つらい体験がある。「一部の先生からは授業中、『国の守りである神社を大切にしなければいけない。邪宗に染まるのは良くないことだ』と攻撃された。冷たくされ、苦しかった」。怒られないよう、登下校時には途中の神社に向かって最敬礼もした。
一方、常清でも授業から英語が消え、替わって竹やり教練や空襲を想定したバケツリレーなどが繰り返されるようになる。神田らは非国民と世間の反発を買う修道服を脱ぎ、もんぺをはいた。学校を守り、生徒たちに肩身の狭い思いをさせたくない一心だったことは想像に難くない。こうして常清も例外なく、国家総動員体制の歯車として組み込まれていった。(敬称略)
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一発の原爆は、ショファイユの幼きイエズス修道会を母体とした常清高等実践女学校(爆心地から〇・六キロ)の校舎を壊滅させ、多くの教職員と生徒の命を奪った。事実上、原爆で校史を閉じた常清の関係者の証言、平和への思いをつむぐ。