裁判 国の主張に耳疑う
原爆症認定を求める集団訴訟の長崎地裁判決が二十三日に迫った。二〇〇三年四月の初提訴から約五年二カ月。司法に希望を託した原告二十七人が、その判断を待つ。原告の思いに迫った。
諫早市付近に上陸した台風14号が猛威を振るっていた。二〇〇五年九月六日にあった本人尋問。原告団長の森内實さん(71)=西彼長与町高田郷=は長崎地裁法廷の証言台にいた。
被爆当時の惨状と、病と闘ってきた人生をありのまま伝えようと臨んだ。が、国側と尋問がうまくかみ合わない。というより、国はあまりに無知だと感じた。
国 「入市後、家路に就いたのは何時何分か」
森内さん 「恐らく夕方の五時ぐらいだった」
国 「本当に五時か」
時計は貴重品の時代。当時八歳の子どもが持てるはずもない。時刻を知るにも原爆が落ちた後の混乱の中だ。少し想像すればそんな質問自体が意味をなさないことは分かるはずだった。
そんなやりとりが続いた。原爆と病の因果関係を問いただそうとの熱意はみじんも感じられなかった。
「要するに国は原告の苦しみを理解していない。しようともしてない」
反論のため、細微なことまで言及し、なりふり構わぬ被告・国。認定行政の「正体」を見た気がした。
森内さんは爆心地から四・八キロの長与村で被爆。十一日から爆心地近くに入り、ごみだらけの井戸の水を何回も飲み、家の残骸(ざんがい)でイモを焼いて食べた。数日後、嘔吐(おうと)するなど、もがき苦しんだ。
原因不明の関節症に悩まされるなど体調は優れず、一九九五年からは三年おきに大病を患った。C型肝炎、大腸がん、胃がん。体をむしばむ病が原爆のせいだと認めてほしい-。被爆者運動とは縁遠かった人生だが、その一点で訴訟に加わった。
「お金目当てじゃないのか」と法廷の外で心無い言葉を浴びたこともある。国の被爆者への姿勢そのものが、そうした誤解や偏見を生んでいる気がしてならない。
国の主張には耳を疑った。争点の放射線起因性について「原告は被爆していないといっても過言ではなく、認めるのは非常識というほかない」というのだ。
ではこの病の原因は何なのか。昨年七月の意見陳述で裁判長にこう訴えた。「放射能にまみれた人はもう亡くなっているとか、がんは老人性だとか、国の主張はでたらめだ」と。
判決を一カ月後に控えた五月二十九日。森内さんに認定書が届いた。四月からの新基準で原爆症に認められた。一原告なら素直に喜んだかもしれない。でも団長として二十六人の仲間を思う。提訴後、八人が亡くなった。「生きて全員勝訴を」の願いはもう、かなわない。