思い 平和の種まき続ける
今年五月、長崎市の繁華街。高校生らに交じって核兵器廃絶の署名を呼び掛ける一人の白髪の男性がいた。在ブラジル原爆被爆者協会会長の森田隆(84)=サンパウロ市在住=。来日に合わせ、今回も被爆地・長崎を訪れた。行動の原点は運命の「あの日」にある。
憲兵兵長だった森田は、本土決戦に備えて地下壕(ごう)掘りを指揮していた広島で被爆。破壊し尽くされ、無数の遺体が転がる街を焼けただれた負傷者の救助に歩き回った。国のため死ぬのは当然と考えていたが、「人間の尊厳を損なう戦争はもうごめんだと思った」。
戦後の生活にも失望していたころ、移民を奨励する外務省のチラシに目を奪われた。うたい文句に誘われるように一九五六年、妻や二人の子どもとブラジルに移住。だが、現地での生活は「新天地」の前宣伝とは違って過酷を極め、被爆者はここでも就職や結婚などで差別、偏見に苦しんだ。
日本に被爆者援護制度ができたことを知り、八四年、協会を発足。森田は請願書を持って厚生省(現・厚生労働省)を訪ねたが、担当課長は「出て行った人たちに日本は何もできない。ブラジル政府に頼みなさい。税金も払わず、国を捨てたのだから」と冷たかった。「国の移民政策は棄民政策だったのか」。唇をかんだ。在外被爆者救済を求める長い闘いの始まりだった。
森田ら協会員は若い人たちに平和の種をまきたいと、約十五年前から地元の高校などで被爆体験の講話を続けている。年間、百件近い要請があるという。平和と核廃絶を訴えて長崎から始まった「高校生一万人署名」の輪をブラジルで広め、署名を国連に届ける高校生平和大使を公募、派遣するなど、被爆地と手を携えた活動にも力を注ぐ。
国への最初の要望から二十四年がたった今月、改正被爆者援護法が成立したが、求めていた海外での医療給付は積み残しになった。「公的医療保険がないブラジルでは、経済的負担から治療を断念する被爆者が少なくない。日本の被爆者と同じように海外でも援護法の医療給付が受けられるようにしてほしい」。会員百三十人の平均年齢は七十四歳。法改正にも森田に笑顔はない。
ブラジルで平和活動のすそ野を広げようと、協会は五月、市民団体「被爆者とともに平和を」を旗揚げした。課題は山積だが「地球上に二度と長崎、広島のような悲しい思いをさせたくない。それが生き残った被爆者の務めと思う」。まいた種はいつか花開く。森田はそう信じている。(敬称略)