証明 時流れ、遠のく入り口
今年五月、韓国・釜山市郊外の団地で、独り暮らしの郭福南(カク・ポクナム)(79)が、聞き取り調査に訪れた韓国原爆被害者協会釜山支部長の許萬貞(ホ・マンジョン)(75)らと向き合っていた。
疎開先の長崎の借家で原爆に遭ったという郭と妹は二〇〇三年、被爆者健康手帳を求め、事前審査申請書を長崎市に出したが、「被爆の裏付けが取れない」として返送された。手帳がない郭は法的には「被爆者」ではなく、被爆者援護法の施策が受けられない。
「北九州の門司で生まれ育った。(一九四五年)八月一日の夕方すぎに長崎に着いた」「九日の朝は家を背に井戸端で洗濯をし、妹は左手の池で水遊びしていた。急に右手から爆風が襲いかかってきた」「赤ん坊の弟は天井から落ちてきた柱に当たって死んだ。母が裏山に埋めた」。どこか九州なまりを感じさせる郭の証言は具体性に富む。
来日調査で郭は浜平二丁目の一角を「被爆した借家があった場所」と確信した。だが、証人も見つからず、手帳取得に必要な「被爆の証明」ができない。
脚と肺を患い通院が続くが、援護法の手当がもらえず、妹からのわずかな仕送りに頼る生活だ。協会や長崎の支援者の聞き取り調査を、もう何度受けたか分からない。「うちが死んだら(こんなことも)おしまいだね」。やるせない表情でため息をついた。
その前日、訪韓した田上長崎市長に協会は在外被爆者支援の要望書を手渡していた。「証明が困難な在外被爆者に(立証につながる)情報提供などの配慮」も求めたが、市長は「何かできることはないかというスタンスで考えていきたい」とだけ答え、対応の難しさをにじませた。
海外から長崎市に対し、郭のような事前審査申請は二〇〇二年度以降で五百五件あったが、本申請に進み、被爆を認定されて手帳交付に至ったのは三百三件(今年三月現在)。「外国人の立証は日本人以上に困難。入市被爆だと特に難しい」。入市被爆した韓国人男性の証人捜しや現地調査にかかわった長崎の証言の会の鎌田信子(75)は言う。
援護法改正で援護施策の入り口に立ちはだかってきた「来日要件」は撤廃されても、その入り口にもたどり着けない多くの「被爆者」がいる現実。「認定の基準は無原則に曲げてはいけない」との意見の一方で、歳月が被爆の証明を年々困難にする中、「決定的な証明はなくても本人の証言に整合性があれば積極的に認めるべき」と現実的な対応を求める声も高まりつつある。(敬称略)