硫黄島からの生還
 =長崎・最後の証言者=
 <番外編> 上

松月堂で働いていたころの水田猛さん(左)(河野展江さん提供)

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硫黄島からの生還 =長崎・最後の証言者= <番外編> 上 記 憶 「丸ぼうろ」に兄の優しさ

2007/08/29 掲載

硫黄島からの生還
 =長崎・最後の証言者=
 <番外編> 上

松月堂で働いていたころの水田猛さん(左)(河野展江さん提供)

記 憶 「丸ぼうろ」に兄の優しさ

太平洋戦争の激戦地・硫黄島の戦いを経験した深堀(旧姓・田川)正一郎さん(88)の証言を基にした本紙企画「硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者」(八月十一日から九回連載)に、戦死者の遺族から反響があった。ハリウッド映画で注目を浴びた硫黄島だが、日米合わせて約二万九千人、うち二万一千九百人の日本兵がその島で息絶えたのは決してフィクションではない。死者それぞれに思いを寄せる人がいる。時は心の痛みを和らげてくれるが、その痕跡が消えることはない。番外編は遺族の思いを記す。

長崎市に住む河野展江(80)の九つ違いの兄、水田猛=当時二十六歳=は一九四五年三月十七日、硫黄島で戦死した。家族の元に届いた木箱の中には、名前が書かれた木札だけが入っていた。

「長崎の者もだいぶ居る」。硫黄島から届いた猛の手紙にはそうあった。「誰かが兄の最後を見届けているかもしれない」。展江は淡い期待を抱きながら、それを調べるすべもなく、戦後を過ごしてきた。

展江は、本紙連載で県内に硫黄島からの生還者がいると知り、驚いて本紙に電話をした。「深堀さんは私の兄をご存じないでしょうか」。深堀が保存している硫黄島に出征した本県関係者の戦死者名簿に、猛の名前があった。所属は深堀と同じ中迫撃砲第二大隊。だが、深堀と面識はなかった。「所属する中隊や小隊が違ったんでしょう」。深堀は申し訳なさそうに言った。

展江のかすかな望みは断たれた。だが、ようやく気持ちの整理がついた気もする。優しくて大好きな兄が確かにいた。その記憶は「丸ぼうろ」の甘い香りとともに、いつでも鮮明によみがえる。

◇ ◇ ◇

猛は西彼杵郡の松島の出身で、十四歳から今も佐世保にある老舗・松月堂の菓子職人として働いた。猛が帰省するとき、展江は走って学校から帰った。猛が必ず持ち帰る松月堂の丸ぼうろが楽しみだった。

猛は日中戦争に行き、無事に帰ってきた。その後は長崎市内に借りた家から川南造船所に通い、展江が身の回りの世話をした。「こんな時代だからこそ人さまにはよくしておけ。戦争が終わり、何かするときは必ず助けてくれる」。猛はよく言っていた。いずれ自分の菓子店を出すつもりだったのだろう。

猛に赤紙が届いた。松島の実家に帰る間はない。長崎市内の叔父宅で連絡を受けた展江は、慌てて叔母と二人で赤飯を炊いた。時間が足りず、あずきは半煮えだった。夜八時、長崎駅で叔母と二人、猛を見送った。それが最後の別れとなった。

◇ ◇ ◇

展江と五つ違いの兄、孝は四四年三月、千島列島付近で乗っていた輸送艦が撃沈され亡くなった。「名誉の戦死だといいんだが」。そう言っていた猛だから、生きて帰ることはないと思っていた。それでも展江は、硫黄島から生還した兵士の映像がテレビで流れると、猛の姿を探した。

昭和四十年代。展江は夫の仕事で佐世保に住み、松月堂でよく丸ぼうろを買った。その味をかみしめ、兄を思った。洋裁学校に通う展江のため、造船所で配給された地下足袋をどこかでミシン針に換えてきてくれた。自分はいつもぼろぼろの足袋をはいていた。

展江は今も、菓子店の前を通るたび考えてしまう。「兄が生きていたらどんな店を出していただろう」(敬称略)