硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 8

樽見静摩さんから届いた最後の手紙

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硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 8 決 別 死を覚悟最後の手紙

2007/08/19 掲載

硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 8

樽見静摩さんから届いた最後の手紙

決 別 死を覚悟最後の手紙

「よし、俺(おれ)がいいことしてやるよ。さもなきゃお前(まえ)の手紙は絶対に検閲を通らないからな」

「おい、ちょっ、何やってんだよ」

西郷が家族に出す手紙を受け付けた兵士がペンで手を入れていく。

「『花子へ。我々(われわれ)一兵卒は掘り続け…』。だめだだめだ、こりゃ、絶対無理だ」

(映画「硫黄島からの手紙」)

◇ ◇ ◇

硫黄島で戦死した東彼波佐見町出身の樽見静摩=当時二十八歳=から、自宅に二通の年賀状が届いたのは一九四五年一月二十日ごろ。それが最後の手紙となった。

「決戦下昭和二十年の新春を迎え御目出渡ふ 家内一同元気だと思ふ 小生も元気だ安心せよ 決勝の鍵は頑張(る)のみ」。最後には「終り」と書いてあった。

「それまでは敬具や草々と書いてきていた。兄は死を覚悟している、そして日本は負ける、と思った」。弟の立馬(78)は振り返る。

静摩はどこにいるかを知らせなかった。居所が分かるような表現は許されなかったからだ。最後の手紙にも検閲印が押されている。だが立馬は兄が硫黄島にいることを知っていた。

ある日、兄から波佐見町出身の人の消息を尋ねる手紙が届いた。その人と同じ名前が肩掛けに書いてある小銃が、兄の元に巡ってきたという。「もしかして彼ではないか。負傷または戦死していないか知らせてほしい」

この人は静摩の妻だったミツエ(85)と幼なじみ。家族に聞くと、小倉の病院に入院しており、硫黄島から戻ってきたとのことだった。

静摩は硫黄島から生還した田川正一郎と同じ迫撃砲の部隊だった。「樽見さんは観測・通信担当の小隊にいて、私たちの後方で砲弾を撃つ指示を出していたと思う」。田川は遠い記憶をたどる。

静摩は三月十七日戦死。白い布でくるんだきり箱が届いた。だが中に遺骨はなく、硫黄島のものと思われる砂と位牌(いはい)のようなものが入っていた。「遺骨も残らないほど無残な死に方をしたのか」。家族はただ泣いた。

きり箱が届きながらひょっこり帰ってきた人もいる。だが、静摩は戻ってこなかった。立馬は九二年に初めて硫黄島の遺骨収集に参加した。若いままの静摩の姿が頭の中によみがえった。

「立馬、よう来てくれたね」

「兄貴、大変やったね」

「俺の分まで長生きしろよ」

「そうだね、長生きするよ」

そんな会話を交わした。ぬぐってもぬぐっても、汗と涙が噴き出た。

立馬は戦後、静摩の妻だったミツエと結婚した。二人は今も、最後の手紙を大切に持っている。(敬称略)