原 爆 長崎投下ハワイで知る
硫黄島に新たに配属された兵士が壕(ごう)の中に入ってきた。一人の日本兵が尋ねる。
「おまえ、出身はどこだ」
「神奈川であります」
尋ねた日本兵がそばの兵士に話を向ける。
「おい、おまえも神奈川だろ」
「おう、そうだよ」
(映画「硫黄島からの手紙」)
◇ ◇ ◇
一九四五年四月、田川正一郎は硫黄島からグアムの野戦病院に移された。ようやくつえをついて歩けるようになり、ベッドから便所に行こうとしたときだった。
「あんまり無理しなさんな」
隣にいた同じ長崎県出身の林田毅が、初めて声を掛けてきた。田川が無口なこともあり、硫黄島の野戦病院では話したことがなかった。
林田は別の兵士二人と手りゅう弾一発で自決を図った。二人は死んだが、林田はかろうじて息があった。米兵がそれを見つけ、硫黄島の野戦病院に運んだ。だが、林田は両足に重傷を負い、片足はひざ下を、もう片方はひざ上を手術で切断したという。
グアムに約一週間いた後、ハワイの米軍の病院に移動。その船でも、田川と林田は同じ部屋になった。上海に住んでいたという林田は英語が堪能で、見張りの米兵をからかうようなそぶりさえ見せた。
八月のある日。米軍の衛生兵が、日本兵が寝ている部屋に入ってきた。「戦争が終わった」。満面の笑みで叫んだ。時計を見ると午前三時。眠気は吹き飛んだが、日本兵全員がぼうぜんとしていた。「ちくしょう、ちくしょう」と繰り返す者もいた。「日本はアメリカの属国になるのか」。田川は思った。地元新聞は、広島への原爆投下を伝えた。米兵が大喜びした意味が分かった。
まだ終わってはいなかった。八月九日、今度は長崎に原爆投下。それまで長崎の被害はあまり新聞に出ていなかったので、にわかには信じられなかった。だが、無残に破壊された浦上天主堂の写真を新聞で見つけた。橋口町の自宅は天主堂からそう遠くない。家族の安否が気になり、一刻も早く帰りたかった。でも、捕虜の身ではどうしようもなかった。
二人の妹、叔父叔母ら計七人の親族が原爆で亡くなっていた。それを知ったのは約一年五カ月後、田川が復員してからのことだ。
八月十五日、日本敗戦。新聞に載った天皇陛下の玉音放送の内容を、林田が日本語に訳して教えてくれた。皇居の前でひれ伏す日本人の写真もあった。「これで日本も終わりだ」。ベッドに横になると、死んでいった仲間の顔が次々と浮かんだ。「申し訳ない」。涙があふれた。 (敬称略)