捕 虜 家族を思い偽名を使う
「海岸に連れて行くか」
「冗談だろ。敵の標的になる」
投降した二人の日本兵の見張りを命じられた二人の米兵が、たばこをくわえながらやりとりしている。
「いい考えがある」
米兵はそう言うと、無表情に二人を射殺した。(映画「硫黄島からの手紙」)
◇ ◇ ◇
一九四五年三月下旬。自決を覚悟した田川正一郎は、壕(ごう)の奥で、拳銃を調達に行った仲間の帰りを待っていた。そこに、慌てふためいて三人の日本兵が戻ってきた。「米軍に見つかった」
「ニッポンジンはおらんか」。だれかが壕の入り口で叫んでいる。「日本兵じゃないか」。田川が三人に問い返すと、「確かに英語をしゃべっていた」と言う。やがて、一人の日本兵が懐中電灯で暗い壕の中を照らしながら入ってきた。身なりからすると将校クラスのようだ。既に米軍の捕虜になっていたのだろう。「自決するより捕虜になった方がいい。恥ずかしいことではない」と盛んに勧める。
田川はすぐには従えなかった。捕虜になったと内地に伝われば、家族が「非国民」と非難される。ひょっとしたら、投降しても米軍に殺されるかもしれない。捕虜は「ローラーでひき殺される」「去勢される」と聞いていた。
やりとりは三十分ほど続いた。迷った揚げ句、全員で投降すると決まった。今思えば、少しは生きたい気持ちがあったのかもしれない。
右足を負傷して起き上がれない田川は、担架で運び出された。壕の外で待っていた米兵は「スモーク?」「ウオーター?」と、たばこや水を差し出した。担架ごとジープに乗せられ、広い飛行場に連れて行かれた。
「ここでひき殺されるのか」。まだ疑っていると、将校クラスの米兵が、にこやかに日本語で名前、階級、陣地などを聞いてきた。不安は次第に薄れたが、名前はとっさに思い付いた「フジカワヨサク」の偽名を使った。やはり内地に伝わるのだけは避けたかった。
その後、野戦病院に運ばれると、負傷した日本兵が大勢いた。捕虜になったのを後悔しているのか、互いのせいにして口論する兵士もいた。
田川は翌日、右足の手術を受けた。全身麻酔から覚めると、既に終わっていた。次第に足の腫れは収まり、化膿(かのう)によるにおいも消えた。ただ傷口が腐らないよう、尻にペニシリンを注射されたときは痛かった。
数日後、田川のベッドから通路を挟んで反対側に、一人の日本兵が運ばれてきた。重傷で、三本の瓶から輸血を受けていた。それが同じ長崎県出身の林田毅だと分かるのは、しばらくたってからだった。(敬称略)