硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 5

壱岐の辻梅成さんが硫黄島で使っていた飯ごう

ピースサイト関連企画

硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 5 食 料 「銀めし」食べたことも

2007/08/16 掲載

硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 5

壱岐の辻梅成さんが硫黄島で使っていた飯ごう

食 料 「銀めし」食べたことも

「また雑草汁かよ」

西郷が手元のカップを見ながら苦虫をかみつぶしたような表情で話す。

「栗林閣下殿は持久戦に備え食料を倹約しているらしい」。同僚が言う。

「やつらが仕掛けて来る前に俺(おれ)たち死んじまうかもな。今の俺たちの働きからすりゃ、カステラとかコッペパンとか出てもいいくらいだよ」

(映画「硫黄島からの手紙」)

◇ ◇ ◇

田川正一郎は硫黄島で何を食べていたか、記憶が定かでない。飯ごうで玄米のようなものを食べたが消化しきれず、便に交じっていたのは覚えている。硫黄島から生還した壱岐の辻梅成=一九九九年に八十八歳で死去=は「食糧、水はなく苦闘の毎日であった」と、回顧録で振り返っている。

だが、田川は「銀めし」を食べたことがある。ある日の昼食、部下の一人の兵長が田川の分隊員それぞれの飯ごうに白米を盛ってくれた。「どうしたのか」。尋ねても答えない。後から分かったことだが、海軍の米俵をくすねてきたらしい。

これが上官の中隊長にばれ、田川は地下の部屋に呼び出された。「お前のところは銀めしを食べているのか。俺のところにも持ってこい」。田川は“命令”に従った。

食料や物資の輸送を担う海軍と、田川ら陸軍では、食料に「雲泥の差があった」という。田川は米軍の上陸後に海軍の砲台の守備に回ったときも、島に来てから見たこともなかったカニの缶詰にありついた。

◇ ◇ ◇

「大丈夫か。顔色悪いんじゃないか」

腹を押さえて前かがみになる同僚に、西郷は心配そうに尋ねる。

「ああ、水のせいだ、間違いない。あかん、俺、ちょっと失敬するわ」

(映画「硫黄島からの手紙」)

◇ ◇ ◇

硫黄島はその名の通り、至る所に硫黄が噴出。硫黄臭い水が兵士を苦しめた。猛烈な下痢に襲われ、栄養失調で亡くなる者も少なくなかった。田川も上陸当初は井戸の水を飲み、「腹がパンパンに張った」。雨が降ると、陣地のテントの上を流れ落ちてくる水を飯ごうにためて飲んだ。

詳しくは覚えていないが、そのうち「水道水のような水が飲めるようになった」という。防衛庁防衛研修所戦史室の戦史叢書(そうしょ)には「多くの空ドラム缶を利用し、また特別の集水法として硫黄の水蒸気が噴き出ているところに三本の杭(くい)を立て、ムシロをかぶせて集水した」とある。

それでも「水の一滴は血の一滴」として節水に努めた。だが、水と生野菜不足で栄養失調と感染症のパラチフス患者が続出、その数は総員の約二割に達したという。(敬称略)