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寄 稿 =原爆は戦争を終わらせたか= 中 元長崎大学長 土山秀夫氏 “神話”信じる米国民

2007/08/04 掲載

元長崎大学長 土山秀夫氏 “神話”信じる米国民

戦争の終結が何によってもたらされたかと問われて、ただ一つの理由だけで説明できる場合はむしろ例外に近いだろう。原爆投下によって戦争を終わらせたと思うか、との設問に対しても同じことが言える。

筆者は一九九五年の夏、米国のスミソニアン「原爆展」をめぐる論争直後、アメリカン大学で開かれたフォーラムに日本側からの三人の一人として招かれた。米側の学者三人との討論に加わるためだった。これが契機となって、それまでは主に日本における原爆投下への論考を調べていたことに加えて、米国の歴史学者による詳細な研究を追うこととなった。本稿ではそうした点を踏まえながら、戦争終結に対する筆者なりの判断を述べてみたい。

現在でも米国の一般の人たちは、「原爆は戦争を終わらせ、五十万から百万人の米兵の命を救った」とする“神話”を信じている、或(ある)いは信じたいと思っている。しかしそれは決して歴史家の間の定説ではない。なぜなら原爆は戦争を終わらせた要素の一つではあり得ても、最も重要な要素であったかとなるとむしろ否定的な意見が強いからだ。また五十万人、百万人の数字が虚構のものであることは、米国の専門家の中ではすでに定説ともされている。従って戦争を終わらせたのに最も重要と考えられる要素は何か、という点にしぼり込むのが本稿の目的である。

一九四五年五月、日本の敗色はもはや誰の目にも明らかであった。そうした折、最高戦争指導会議ではソ連を仲介にして、米英との和平を運ぶ方針を決定した。無条件降伏ではなく、少しでも日本に有利な条件で和平を実現できるのはソ連の仲介をおいてはない、との案に、本土決戦を主張していた陸軍も賛同した。考えてみればある意味では身勝手な案であって、いかに日ソ中立条約を結んでいたとはいえ、陸軍はそれまで常にソ連を仮想敵国とみなしていた。現に日ソ中立条約を締結したわずか三カ月後に、日本はすでに対ソ武力発動の準備にかかっていた程である。

一方、ソ連は七月から始まったポツダム会談の席上、かねて米国から要請されていた対日参戦を八月後半に行う旨告げている。だが日本政府はその事実を知る術(すべ)もなく、近衛元首相を特使としてモスクワに派遣することをソ連に申し入れた。

八月六日の広島への原爆投下翌日に開かれた関係閣僚の会議で、東郷外相は米側放送によって攻撃が原子爆弾であることが判明したと紹介した。しかし陸軍は非常に強力な普通爆弾であろうと主張し、調査の結果ウラニウム爆弾と判明した後でも戦争遂行のためにその公表には反対した。そのため敗戦時まで「新型爆弾」としてしか発表されなかった。ソ連は八月八日になって宣戦布告文を駐ソ大使に手渡した。日本がポツダム宣言を拒否したために、日本からの特使派遣はその基礎を失ったというのが理由であった。八月後半の予定を前倒ししたのは、原爆投下を知ったソ連が対日参戦を急いだとする見方が有力である。ソ連軍は八月九日未明にソ満国境から一斉に進撃を開始し、同日午前十一時二分には米軍機によって長崎への原爆投下が行われた(外務省編さん「終戦史録」ほかによる)。

こうした経過からも分かるように、米英に対して徹底抗戦を主張していた軍部も、ソ連仲介についてはある種の期待を抱いていた節が読み取れる。それだけに申し入れが拒否され、逆に宣戦布告されたことは相当なショックだったに違いない。それに先立つ広島への原爆投下の場合は、被害に驚きつつも戦争の矛を収める意思表明は全く示されていない。従って戦争の終結は、日本の戦力がすでに底をついていたこと、相次ぐ空襲と原爆投下によって国民の戦意喪失を招いていたことなどの要因に加え、ソ連参戦という「とどめ」が天皇の決断を促し、狂的な本土決戦を避け得たと考えるのが最も妥当であろう。

つちやま・ひでお 1925年長崎市生まれ。69年長崎大医学部教授、82年同大医学部長、88年同大学長。現在、「世界平和アピール七人委員会」委員、「核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ」実行委員長、「長崎県九条の会」共同代表。