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寄 稿 =原爆は戦争を終わらせたか= 上 作家 保阪正康氏 史実誤った久間発言

2007/08/03 掲載

作家 保阪正康氏 史実誤った久間発言

被爆地長崎は今夏、日米両政府の閣僚らの発言に大きく揺れた。太平洋戦争での米国の原爆投下について久間章生前防衛相は「しょうがない」と発言。被爆者の激しい怒りが収まらないうちに今度は米国のロバート・ジョゼフ核不拡散問題担当特使が「戦争を終わらせた」と述べ、原爆投下を正当化した。被爆から62年。記憶や体験の風化が現実味を帯びる中、このような発言が飛び出すことに被爆者の危機感は強い。本当に原爆は戦争を終わらせたのか。3人の識者に寄稿してもらった。

久間前防衛相の原爆投下容認発言は、二つの意味を伴っていた。一つは、「広島、長崎への原爆投下は戦争を終わらせるにはしょうがなかった」、もう一つは「原爆投下がなければソ連による北海道占領がありえた」というのである。つまり原爆投下による終戦で北海道占領は阻止されたというのだが、ここには史実について基本的な誤りがある。

両者の間にはなんらの関係もないというのは歴史的経緯を確かめると、すぐに分かることだ。後者の北海道占領阻止について言えば、ソ連の参戦自体、この年二月のヤルタ会談でのアメリカ、ソ連、イギリスの秘密議定書によるし、スターリンの北海道占領の意思はむしろ八月十五日以降の米ソの政治的駆け引きの結果認められなかった。久間前防衛相はこのあたりの史実を曖昧(あいまい)なままで発言している節がある。

現在、なにゆえに「原爆投下容認発言」を行うのか、私は定かにはその真意は分からないが、あるいは憲法改正や非核三原則の見直しなどを意図してのことなのかもしれない。その意図はないと否定しても、昨今の政治情勢ではそのような解釈をされてもやむを得ないだろう。

久間発言の二つのうちの初めの部分、つまり原爆投下容認という認識は史実を検証したうえで当たっているか否かは、実は歴史的には多くの論議があるところだ。昭和三十年代、四十年代にも歴史学者などが、日本が降伏した真の理由は原爆投下が原因だったのか、それともソ連の対日宣戦布告(八月九日)だったのかとの論議を行っている。社会主義に立脚する論者のなかには、ソ連の参戦によって日本は降伏したとの論があった。実際に今なおこのような見方を採る論者もいるようである。

しかし、当時の昭和天皇や政治、軍事指導者たちの考え方を御前会議や最高戦争指導会議、閣議などの記録でくわしく検証していくと、私は終戦は原爆投下でもソ連の参戦でもないと思う。七月二十六日に発せられた連合国のポツダム宣言を受諾するか否かの論議を見ると、受諾派(終戦期待派)と抗戦派(本土決戦派)では当初は抗戦派の勢いが強い。この抗戦派は国体護持を目的化し、そのためには一切の犠牲をいとわないとの立場であった。この立場の軍事指導者は、原爆もソ連参戦も終戦に結びつけようとは考えていない。

これに対して、鈴木貫太郎首相や東郷茂徳外相は、すでに日本は戦う状態にない、一刻も早く終戦をと考えていた。この受諾派は、原爆投下やソ連参戦は軍事上の敗北を明確にしたのだから、なんとしても終戦にもちこまなければとの考えを固めた。鈴木首相は、昭和天皇もまた内心でそうした強い意思をもっていることを知り、八月九日の御前会議であえて天皇に聖断を仰ぐという手続きを採っている。天皇は、立憲君主制のもとその意思を明かさないシステムになっていたが、このときはポツダム宣言受諾の意思を明言し、そして日本は戦争を終えることになったのである。

こうした経緯を見ると、大日本帝国の終戦は極めて日本的システムでの結論だったことが分かる。

アメリカ政府は、原爆投下時のトルーマン大統領から始まって歴代の大統領は「原爆の使用によって終戦となった。そのために百万人余のアメリカ軍兵士や日本人を救った」という論理で正当化しつづけてきた。アメリカ世論もこの点では一貫している。今回もアメリカ政府のロバート・ジョゼフ核不拡散問題担当特使はこの論を、日本の世論への反論として示している。

久間前防衛相の原爆投下容認論は、こうしたアメリカの正当化論と一体化しつつ、そこに史実無視の姿勢をつけ加えた。しかしこの容認論とて「投下した側の論理」である。私たちは「投下された側の反論」として、当時の日本の軍事指導層を中心とする抗戦派を強く批判しつつ投下した側の一方的解釈を徹底して排除すべきだと思う。

ほさか・まさやす 1939年北海道札幌市生まれ。昭和史の事件や人物を題材に数多くのノンフィクション、評論、評伝を発表し、一連の昭和史研究で2004年に菊池寛賞を受賞。最近の著書に「昭和史の教訓」がある。

原爆「しょうがない」発言 6月30日、防衛相の久間章生衆院議員(長崎2区選出)が千葉県柏市内の講演で「日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。幸い北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった。長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている」などと発言。被爆者らが猛反発し、久間議員は防衛相を辞任した。