質高め「知識」でつなぐ 修学旅行生に惨状想像させ
長崎市の被爆者の平均年齢は七十四歳。原爆の実相を伝え、核兵器廃絶を訴えてきた中心的存在の高齢化が言われて久しい。そうした中で、被爆遺構などのガイド役の「平和案内人」、長崎の声を国連に届け続け、活動十年目を迎えた「高校生平和大使」のメンバーら戦後世代が継承に取り組んでいる。「伝えたい」。次世代へ、世界へ。長崎の思いをつなぐ人々に焦点を当て、被爆地の「今」を考える。
「皆さんが立っている下から、たくさんの人の骨が出てきました」
長崎市松山町の爆心地公園。平和案内人の杉本恭子さん(55)が修学旅行生に語り掛ける。「長崎原爆で七万四千人が亡くなり、市民の三分の二が被害を受けました」。約二時間に及ぶ被爆遺構巡りが終わるころ、生徒は原爆落下中心碑に黙とうをささげた。
原爆を知らない世代が、原爆を語り継ぐ。それが平和案内人。被爆遺構巡りのほか長崎原爆資料館内でガイド役を務めるボランティアだ。長崎平和推進協会が二〇〇四年から講座などで育成し、翌年四月からガイド事業が始まった。
杉本さんは、初年度からの平和案内人。被爆者の母親の話を聞いて育った。おじは被爆から十四年後、白血病で亡くなった。「どうして死ななきゃいけないの」。理不尽さを抱き、「被爆者の悔しさを伝えたいと思った」。平和案内人になるために講座を受け、本や資料で猛勉強した。
それでも、言葉で説明するだけでは、被爆当時の真の悲惨さは伝えようもない。だから六十二年前の惨状を頭に描かせる。「皆さん、想像してみてください」
聞いていないそぶりの子どももいる。そんな子が最後には質問をし、熱心な感想文をくれる。「話せば分かる」。杉本さんの実感だ。
平和案内人の活動開始から二年余り。修学旅行生を中心に利用は計二百二十二件に上る。今年四-六月だと六十三件(利用者数は計約三千六百人)で、過去二年の同じ時期より多い。認知度は次第に高まっている。
被爆者らでつくる「長崎の証言の会」代表委員の内田伯さん(77)は、そんな平和案内人を心強く感じている。
同会でガイド役を務める被爆者は約二十人で、ほとんどが七十歳以上。年間約百校に被爆遺構を案内しているが、修学旅行シーズンに午前、午後とも対応するには体力的に限界がある。
被爆者以上に原爆の惨禍を伝えられる存在はない。だが、六十二年という歳月は、いつの日か「被爆の生き証人」がいなくなる、という厳しい現実を突き付ける。誰が、どうやって原爆を伝えればよいのか。
内田さんは言う。「確かに平和案内人が話すのは体験ではなく知識。でも次の世代に活動をつながないと、長崎での平和学習は途絶えてしまう。自分にふさわしい伝え方を見つけ、一人一人の質を高めてほしい」