宣言文 個人と国家直結せず
「核兵器の使用こそが究極の暴力だ」
八月九日の平和祈念式典で、田上長崎市長が読み上げる「長崎平和宣言」。その文案を協議する今年の起草委員会(二十人)は、伊藤前市長の射殺事件をどう盛り込むか、意見百出した。
被爆地の市長が凶弾に倒れた。暴力に屈しない姿勢を明言しなければ、最たる暴力である核兵器の廃絶を世界に訴えても説得力はない、との考えからだった。
だが議論は曲折をたどる。ひと口に「暴力」といっても、被爆地にとっては間口が広すぎるからだ。最終的には「一個人の射殺事件と、国家間にまたがる核問題を同列には扱えない」との意見が大勢を占めた。世界の核情勢などを反映させながら、核兵器廃絶への道筋を示す平和宣言。その文脈に、平和都市の市長の命を奪った暴力は直結しない、との判断だった。
世界を見渡すと、巨大な暴力が幅を利かせている。起草委員の土山秀夫元長崎大学長(82)は二〇〇一年の米中枢同時テロを転換点とみて、こう読む。「イラク戦争などで米国を中心に暴力の応酬がまかり通っている。国家が報復の論理に走ると、市民社会にもその論理が投影される」。暴力を正当化する傾向が世界的に強まっている、と土山元学長は考える。
前市長射殺事件、戦争、紛争、核兵器。混然とする「暴力」の問題に被爆地が揺らぐ。
「今年は『踏み絵』を突き付けられているような気がする」
二〇〇〇年から起草委員を務めるながさき女性国際平和会議の西岡由香代表(42)は、起草委員会の討論でこう発言した。「踏み絵とは、二者択一のこと。暴力に屈するか否か。被爆地長崎の姿勢が問われている」
西岡代表は事件後、インターネットの会員制サイトで日記を公開した。「なぜ、なぜ? 仲間たちも一様に言います。『力、抜けたよね…』」。文面に無力感が漂う。
スマトラ沖地震、イスラエル軍のレバノン空爆など、市民が犠牲になる出来事に募金活動や抗議の座り込みを続けてきた。さまざまな困難と危機を乗り越えるため手を取り合うことが、「平和都市長崎」の市民の役割だと考えてきたからだ。
今、被爆地は「暴力とどう向き合うか」という課題を背負った、と考える。無力ではないはず。だが、何ができるのか-。
ユネスコ憲章には「戦争は人の心の中で生まれる。人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」とある。西岡代表は文中の「戦争」を「暴力」に置き換え、なすべき行動について考え続けている。