平和と暴力
 =被爆62年・長崎= 1

「命の重さと等しさ」。原牧師は射殺事件を機に、平和都市でその意味を問い掛ける=長崎市銀屋町、長崎銀屋町教会

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平和と暴力 =被爆62年・長崎= 1 等しい命 「差別意識が軽重決める」

2007/07/23 掲載

平和と暴力
 =被爆62年・長崎= 1

「命の重さと等しさ」。原牧師は射殺事件を機に、平和都市でその意味を問い掛ける=長崎市銀屋町、長崎銀屋町教会

等しい命 「差別意識が軽重決める」

伊藤一長前市長の射殺事件の後、被爆地長崎は、いや応なく「暴力」と向き合わされている。同時に、対極的な「平和」の意味についても問い直しを迫られている、と言えないか。被爆六十二年。足元の平和と、人類普遍のテーマである平和を立ち止まって考えてみる。

長崎市中心部を流れる中島川沿いの長崎銀屋町教会。ひげ面の原和人牧師(37)は「簡単には、つながりませんわ」とつぶやいた。

四月十七日、伊藤前長崎市長が暴力団の凶弾に倒れた。「平和都市長崎でなぜ」。マスコミは騒ぎ立てた。

暴力の先にあるのは殺人。とすれば、究極の暴力は大量殺りく兵器である核兵器。原爆の惨禍にまみれた長崎は、暴力の残忍さを最もよく知り、「非暴力」に徹する都市のはず-。確かにそうもいえるが、原牧師の頭の中では「平和」と「暴力」がよくつながらない。

教団の転任で長崎に来たのは五年前。平和都市、平和学習-。何かと平和の「冠」が付く。だが、原爆被害を訴えることがすなわち平和活動とされ、平和という言葉に“実体”が感じられない。「これでは平和と暴力の本質が子どもに伝わらない」と思い至った。

「暴力を当たり前と考えていた」。京都で過ごした中学、高校時代は暴走族の一員だった。指定暴力団傘下の組事務所に出入りするようになり、やがて準構成員に。「相手を殴った分だけ『ようやった』と褒められた」

更生をちらつかせ近づく大人は拒絶したが、高校の一人の教師だけは話の聞き役に徹してくれた。気持ちが傾き、奇跡的に暴力団を抜けた。

大学進学後、ボランティアに打ち込んだ。大阪市西成区の日雇い労働者の街、通称釜ケ崎で「おっちゃんたちに毛布を差し入れる世話」を続けた。そこで分かったのは「社会の底辺にいる駄目な人間という差別意識が、命の軽重を決め付けることにつながる」ということだ。父の後を継ぐようにして牧師になった後も、頭から離れない。

射殺事件の動揺が冷めやらぬ五月中旬。市内で市民有志が企画した緊急集会に、原牧師はパネリストとして参加し、事件以降抱えていた違和感を語った。「伊藤さんの命をことさら強調すると、紛争や飢餓で死に絶える人の命とは違うということになる」

被爆地は平和を唱え続け、伊藤前市長は国内外で「平和都市の象徴」とされた。だが、底流にあるはずの「命の重さと等しさ」が、ほかならぬ平和都市で置き去りにされていないか。そうした問い掛けだった。

原牧師は、修学旅行生の平和学習講座に携わる。「皆さんが、ある都市を攻撃する側に回ったら、どうしますか」。戦争のシミュレーションでは、頭の中で攻撃の場面を想像させる。

「戦争や暴力への想像力が乏しい中で、いくらそれらを言葉で否定しても伝わらない」。試行錯誤の日々ではある。ただ、平和と暴力を別々のものとして、ひと口に語っても意味がないと確信する。「平和は向こうからやって来るものではない。自分で見つけ、足元からつくり出すものだと信じる」