「語り」の風景
 =被爆61年をすぎて= 5

被爆体験を語り始めた直後、病に倒れた松田圭子さんの遺影。夫が圭子さんの思いを文章に書き残そうとしている=長崎市内

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「語り」の風景 =被爆61年をすぎて= 5 言葉の代わり 妻の思いパソコンに

2006/09/01 掲載

「語り」の風景
 =被爆61年をすぎて= 5

被爆体験を語り始めた直後、病に倒れた松田圭子さんの遺影。夫が圭子さんの思いを文章に書き残そうとしている=長崎市内

言葉の代わり 妻の思いパソコンに

八月八日、長崎市内で開かれた原水爆禁止世界大会の分科会。長崎で被爆した吉山裕子さん(79)が演壇に立った。そばには吉山さんが描いた「原爆の絵」。人前で被爆体験を語るのは初めて。知人に誘われ、断り切れなかった。

爆心地から一・五キロ、三菱長崎製鋼所茂里町工場で建物の下敷きになった。「水を、水を」と叫ぶ顔見知りの工員の声が耳を離れない。

「語ると涙があふれて話せないんです」。八年前、言葉の代わりに絵筆で「あの日」を語った。水を求めて死んでいった人たちを思うと、胸が締め付けられ、口を閉ざした。「絵を描くと、なぜか心が穏やかになった」

百人近い女性たちで埋まった会場。絵に託した思いを話した。だが「緊張して何を話したか覚えていなくて」。もう一度、人前で語るかどうか、まだ決めていない。

「どうしても子どもたちに語りたい」―。

昨年五月、修学旅行生が並んだ平和祈念像前(松山町)。鼻にチューブ、傍らに酸素ボンベを抱えた松田圭子さん=当時(67)=の姿があった。子どもたちの前に立つと、体が震えだした。言葉も出ない。それから五カ月後、圭子さんは息を引き取った。

圭子さんは八歳の時、家野町の自宅で被爆。長崎原爆被災者協議会(被災協)で語り始めた一年後の二〇〇一年、肺にがんが見つかった。入退院を繰り返す日々。「語りたい」という思いばかりが募った。

被爆者でない夫、武久さんは被爆者の体験が分からない面があった。だが死の直前、圭子さんが抱えていた被爆によるトラウマを知った。

胃カメラの検査中、圭子さんが突然震えだした。被爆当日の夜、一人で長与の山中で過ごした経験が、狭くて暗い検査室でよみがえったのだ。「まさか六十年前の出来事が心を深く傷つけていたなんて」。武久さんは、圭子さんの病魔と死の恐怖からくる心の傷を思い知らされた。

「柿の木の下に座った瞬間、ピカッと光った」「死体を飛び越えて逃げた」「寒い山中で一晩過ごした」―。ほほ笑む圭子さんの遺影の前で、武久さんは圭子さんの「あの日」をパソコンに打ち込んでいる。圭子さんが子どもたちに語り残したかった言葉を思い浮かべながら。

被災協は今年の重点事業の一つに、「被爆体験の聞き書き、書き残し」を挙げた。「まだ間に合う。絶対に成功させたい」。山田拓民事務局長は言葉に力を込める。