熱い骨
 =祖母から孫へ= 4

「長崎生活をつづる会」の仲間たち(1964年)。後列左端に瀬戸口千枝さん、同右端は長崎平和研究所常任研究員の鎌田信子さん、中列左から2人目に川崎キクエさん(鎌田さんの実母)

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熱い骨 =祖母から孫へ= 4 長崎生活をつづる会 悲惨な現実を克明に

2006/08/11 掲載

熱い骨
 =祖母から孫へ= 4

「長崎生活をつづる会」の仲間たち(1964年)。後列左端に瀬戸口千枝さん、同右端は長崎平和研究所常任研究員の鎌田信子さん、中列左から2人目に川崎キクエさん(鎌田さんの実母)

長崎生活をつづる会 悲惨な現実を克明に

瓊浦高等女学校(当時)の生徒たちが動員中、遭遇した悲惨な現実を克明に書き記した故・瀬戸口千枝さん。彼女を「表現者」として培ったのは、体験や生活を「記録して考える」運動を実践したサークル「長崎生活をつづる会」だった。

同会は一九五五年七月十七日、長崎市在住の女性ら十七人で発足した。その年の六月五日に開かれた第一回県母親大会の講師、鶴見和子さん(今年七月三十一日死去)の呼び掛けに触発されたのだった。鶴見さんは「エンピツを握ろう、戦争体験を書こう」と被爆の実相の記録の大切さを訴えた。

瀬戸口さんは、早速、行動に移した。鶴見さんが講演の後、母親大会の女性たちに託した回覧ノートに、彼女も被爆体験や日常をつづった。いち早く原爆を執筆した一人でもある。初期の回覧ノートにある「蟻の町その後」と題した一文は戦後、河川敷のバラックで貧しくもたくましく生きる教え子家族を描いたルポ。温かいまなざしが、当時の瀬戸口さんの心境をうかがわせる。

同会の主要会員、川崎キクエさん(故人)は、家族文集「手漕ぎ舟」第一集に、表現者として使命感に目覚めた瀬戸口さんの言葉を紹介している。「私はこの会に入って『書くこと』を覚えた。過去をふり返ると、その一こま一こまがそれぞれみんなの喉(のど)にしみわたるような苦渋の連続であっても、私自身のささやかな歴史の記録として息づいているように思えた」

同会には、詩人の故・福田須磨子さんも入会している。不自由な体に鞭(むち)うち、生活苦、精神的葛藤(かっとう)にさいなまれながら、原爆への怒りを叫び続けた詩人。表現者として活動する会員らへの影響は小さくはなかったはず。しかし、瀬戸口さんは、独自の表現者として記録し続けた。

川崎さんは「手漕ぎ舟」第二集の中で、瀬戸口さんについて「同じ被爆の深い傷跡に苦しみつづけた生涯ながら、福田さんとは全く対照的な生き方をした人」とし、「怒りも悲しみも内に深く燃やした人であった。書き残されたもの、詠み残された歌の中に、執念とも見える先生(瀬戸口さん)の反戦、反原爆の意志を私は読みとることができる」と記している。

忘却なき忘却に生くる人々かいのちひたすらに祈る貌(かお)浄し(「熱い骨」より)