浦上川の惨状 死体の山 水堰き止め
六十一年前のあの日、故・瀬戸口千枝さんは崩壊寸前の長崎市松山町と三芳町に架かる「大橋」(現・下大橋)から、死体が重なり浦上川の水を堰(せ)き止めた悲惨な死体の山に遭遇する。その場所を瀬戸口さんの二女、汐路さん(70)=長崎市滑石一丁目=とひ孫の西諫早小三年、下見和也君(8つ)=諫早市馬渡町=が訪れた。
橋は爆心地から北西に五百十メートルの位置。通勤バスや大型トラックが地響きを立てて往来する。川の両岸はコンクリートで固められ、水はきらきらと夏の日差しを反射して何事もなかったようにゆっくりと流れる。川上の鉄橋を時折、路面電車がゴトゴト通り過ぎる。
近くの県営ビッグNスタジアム、市民プールから子どもたちの歓声が響く。人が集まり行き交うにぎやかな橋。人々はまるであの日、この場所で起きたあの忌まわしい惨状を忘れてしまったように擦れ違う。
汐路さんは九日の長崎原爆の日の前日、母・千枝さんのあの日をしのびながら橋のたもとの川べりまで下り、しみじみと水面を見詰めた。「母はあまり原爆のことを話しませんでしたが、記録(「熱い骨」)を通して私たちにあの日のことをきちんと語り継ぎたかったのでしょう。あの理不尽な光景を二度と見せないために」
「熱い骨」七章「人間堤防」によると、瀬戸口さんは原爆投下から九日目の八月十八日、動員中に被爆した瓊浦高等女学校の生徒たちの死体収容を大半すませ、城山国民学校(現・城山小)付近から大橋まで歩いて来る。途中、「死骸は川の中にも道ばたにもごろごろしていた。死後十日の死体はどれもこれもうじがわき、汁が地面に流れていた」と記す。
橋の上に立った瀬戸口さんの目に飛び込んできた光景。「川岸から水の中まで、折れ重なった死体は川の水を堰き止めていた(中略)それは人間の堤防である(中略)生きていることの苦しさとこんなにたたきつぶされてもじっとこらえねばならない腹立たしさが全身を締めつけてきた」
瀬戸口さんは「その恐ろしさを訴えることは私たちの義務」と書いている。生き残った負い目を、被爆の実相を克明に書き残すという使命と受け止め貫き通した。
汐路さんは涙をぬぐい「母の伝えたかったことを、今度は私が子、孫に伝えていきます」。つないだ自らの孫の手に力を込めた。
浦上川の水を堰きゐる幾百の死屍の傍を生けるは歩む(一九六七年、「長崎の証言」第七集より)