なぜ黙ってしまうのか つらい「あの日」の記憶
故・瀬戸口千枝さんが瓊浦高等女学校(当時)で一九四五年に担任だった生徒の一人、磯田泰子さん(77)=長崎市立山二丁目=の手元には、出版直後に贈られた「熱い骨」の初版本がある。回し読みされ傷んだ表紙には、手製の真っ白なカバー。「しつけに厳しかったが、思いやりにあふれていた」恩師の作品を今も大切にしているさまが見て取れる。
磯田さんは、四年生の夏、動員先の三菱兵器大橋工場で被爆し、爆風で飛んできた木片が頭部に突き刺さり重傷を負った。被爆翌年の瀬戸口さんの学級の卒業写真。最後列に、頭に包帯を巻いた姿の磯田さんも、直後から木くずを取り除く手術を繰り返すなど、入院は十年間に及んだ。現在でも右手などが不自由な暮らしが続く。
七〇年ごろ、瀬戸口さんは磯田さんに、被爆体験執筆を持ち掛けた。しかし、磯田さんは約束の日、瀬戸口さん宅を訪れなかった。いきさつを記した「なぜ黙ってしまうのか」(長崎の証言1970)で瀬戸口さんは「あなたは原爆の生きた証人。その恐ろしさや苦しさを世の中の人々に訴えるのはあなた方原爆の体験者をおいて外に誰がいるでしょう」と思いを伝えている。
磯田さん自身、決して黙していたわけではない。「長崎動員学徒被害者の会」「長崎被爆者手帳友の会」の主要メンバーとして積極的に活動していたといえる。その磯田さんでさえ「書くことは、あの日からの出来事を詳細にもう一度思い出すこと。とてもできなかった」。晩年、がんに倒れた瀬戸口さんを磯田さんは何度も見舞ったが「あの時」の話を口にすることはなかったという。
瀬戸口さんが結核で五五年から三年間の療養生活を送る間に書き上げた「熱い骨」は時に、惨状を冷徹なまでに客観的な視点で描写している。「誰もがためらう惨状を、身を削るようにしてまで残したのは、教師として生徒たちを守れなかった責任を感じていたのかもしれない。先生はやはり優しくて強い人」と磯田さんは振り返る。
黙祷のサイレン鳴れり目つむれば炎を噴きてゐるをとめの髪見ゆ(五五年、「熱い骨」より)