友を焼く 「9日の洗礼」自責の念
長崎市の元教師、瀬戸口千枝さん=一九七四年死去、享年六十二歳=が五九年に出版した原爆体験記「女教師の原爆記 熱い骨」(B6判、二百部)が、孫の「祖母が残した記録を読んでみたい」という一言をきっかけに、遺族らの手によって今年七月、四十七年ぶりに復刻された。初版は、被爆前後の体験をまとめた「八月九日」「人間堤防」など八章で、復刻版はその後の著作を加えた百四十六ページ。戦後、瀬戸口さんは長崎の女性らでつくる「長崎生活をつづる会」にも参加。市井の「表現者」としてナガサキの歴史を記録し続けた瀬戸口さんの半生を振り返る。
長崎市中心部の商家に生まれた瀬戸口さんは、軍属の夫が亡くなった後、四四年から長崎市の瓊浦高等女学校(当時)の国語教諭として教壇に立った。当時、太平洋戦争は激しさを増し、男手の代わりに女性や生徒らが工場などに動員された。「報国隊員の陣頭に 雄々し女教諭の姿 能率をあげる瓊浦高女生の蔭(かげ)にこの力」―。同年八月三日付の長崎日報(長崎新聞の前身)は、こうした見出しで、生徒たちの先頭に立つ瀬戸口さんの同僚、三宅ミヤさん=「熱い骨」では「みや子」と表記=を紹介している。同日の紙面には、マリアナ諸島・テニアン島を死守する民間人の”義勇隊”の記事も。ほぼ一年後の四五年八月九日、米軍占領下の同島から飛来したB29が、長崎に原爆投下。約七百八十人の生徒のうち、三菱兵器大橋工場の動員者ら六十三人が死亡、三宅さんも十一日夜、生徒らの看護のかいもなく亡くなった。
被爆当日は本来、瀬戸口さんが監督に当たる予定。しかし、三宅さんの都合で交代し、学校に残ったことが、二人の生死を分けた。「熱い骨」の一章「友を焼く」には「運命というか宿命というか、私が受けるようになっていた八月九日の洗礼を、人間としては予知することができないとはいえ、三宅先生は自ら選んで受けてしまった」と、三宅さんの骨を骨つぼに納めながら、自責の念にかられる。その後も、工場跡で捜し当てた生徒らの遺体も荼毘(だび)に付し、多くの「熱い骨」を拾い集めた経験が瀬戸口さんの原点ともいえる。
今回の復刻版に付け加えられた著作「二本脚の腰掛け」(「生活をつづる」第六集初出)にも「一瞬のうちに殺された可哀そう(原文のまま)な教え子たちの誰彼の顔がどうしても忘れられなかったし、事実を事実として書き残しておかなければ、そのうちに原爆も忘れられてしまうのではないかと恐れた」と、突き動かされたように筆を走らせた思いを吐露している。
「爛(ただ)れたる真土(ひたつち)のうへに積み重ね教え子の屍体焼きたる記憶」(五五年、「熱い骨」より)