銃 後 「戦場」となった国土
「すべての戦争犠牲者と痛みを共有するとの大原則に立つ。銃後が戦場となった凄惨(せいさん)な真実を明らかにする」
五月十四日の東京空襲犠牲者遺族会の総会で、会長の星野ひろし(75)は国家補償を求める運動方針を説明した。
翌日、東京都墨田区の事務所を訪ねると星野は表に「週報」と書かれた数枚の紙を出した。政府の情報局が戦時中、週一回発行し、地域や職場で回覧するよう求めたものだ。
一九四五年三月十日の東京大空襲の十一日後の週報は、小磯内閣総理大臣の名前で「國難打開の途」と題して、次のように呼び掛けている。
「今や官も軍も民も何等差別すべき時ではありませぬ。陛下の臣民として、一億の同胞は須らく天を仰ぎ地に俯し、敵夾らば軍隊と共に戦ひ、断じて敵を撃滅せねばなりませぬ」(一部中略)
星野は言う。「政府は戦時中、戦場も銃後も差はないと繰り返し言っていた。防空法では灯火管制に背いた人は一年以下の懲役や千円以下の罰金だった。当時は百円の月給をもらっていた人はそういなかった。法で住民を戦争に拘束していた事実を明らかにしたい」
星野がここにこだわるのは、旧軍人・軍属や公務員らには国と「雇用関係」があったとして、国家補償の精神に立ち、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」や「恩給法」で年金や遺族への弔慰金などが支払われるからだ。
四五年三月十日未明。十四歳だった星野が空襲警報で目を覚ますと、外は真っ赤に燃え上がっていた。飛び交う火の粉、烈風、砂ぼこり―。家にいた母と姉を従え、逃げ惑う群衆に加わると、人の波に押されて体が浮き上がり、思うように進めなかった。三人とも無事だったが、星野をかわいがってくれていた伯父夫婦が亡くなった。
しばらくして星野は遺体の収容に動員された。男女の区別もつかない黒焦げの人や目を見開いたまま川に浮いている遺体を、公園に掘った穴に埋めた。何体運んだかは覚えていない。
星野は「『戦場』となった国土で犠牲になった民間人が補償から除外されるのはおかしい。法の下の平等に反する」と話す。
同趣旨で名古屋空襲で片腕を失った被害者が国に賠償を求めた訴訟がある。一審、二審とも敗訴し、八七年の最高裁も上告を棄却した。判決は「補償のために適宜の立法措置を講ずるか否かの判断は国会の裁量的権限に委ねられる」と指摘。この十四年前に国会は「一般戦災者への援護の検討を目途として、実態調査を実施する」と決議しているが、国がこれまでに取り組んだ形跡はない。
さらに判決は「戦争犠牲ないし損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民はひとしく受忍しなければならなかった」とした。
この「受忍論」はどこから出てきたのか。それには歴史の時計の針をいまから三十八年前に戻さなければならない。(文中敬称略)