権利意識 くすぶっていた火種
今年三月四日、東京都台東区。東京空襲犠牲者遺族会は「民間人犠牲者の交流会」を開いた。会場にマイクが向けられると、「空襲被害者ではないですが…」と遠慮がちに手を挙げ、発言する男性がいた。
「被爆者は五十年間、国家補償を要求し続けてきた。東京空襲の被害者の方が訴訟に立ち上がると聞いて、大変うれしかった」。長崎で被爆した吉田一人(74)=東京都杉並区=だった。
杉並区原爆被爆者の会幹事でもある吉田は、被爆者が求めてきた補償の戦後史を説明し、「長崎原爆で亡くなったのは七万人、東京大空襲は十万人といわれる。爆弾の形態は違うが、米軍機の空襲で殺された点は同じ。一緒に頑張りたい」と語った。拍手が起こった。
二〇〇一年に遺族会が発足するはるか以前、一九七〇年に早乙女勝元(74)らが「東京空襲を記録する会」を結成、七四年には「東京大空襲・戦災誌」が菊池寛賞を受賞した。被爆者はこの会が国に補償を求める運動体になるのか注目したが、そうはならなかった。早乙女は「記録する会は作家や学者ら文化人の集まり。空襲の実態を明らかにするのが前提だった」と話す。
遺族会会長の星野ひろし(75)が、まだ有志数人で記録数が少ない空襲犠牲者の名前をすべて把握するよう東京都に求めようとしていた九四年の三月十日。犠牲者の遺骨が納められている墨田区の都慰霊堂前でビラを配っていると、遺族らが次々と集まってきた。「私たちは高齢で来年も生きて来られるか分からない。あなたたちが名前を記録してほしい」「広島、長崎、沖縄は新聞で全国版に載るのに、東京大空襲がそうでないのはおかしい」。戦後五十年を前に、遺族らが心にため込んできた思いが噴き出した。
星野も終戦直後の「一億総懺悔(ざんげ)」論に違和感を覚えていた。「戦争をしたのは国。私たちはやれと言われただけ。当時、中学生でもそんなことを言っていた」。だが「戦時中の教育の影響がまだ残っていたし、みんな身内を失ったり孤児になったり生きるための闘いに必死で、国の責任をどうこう言う余裕はなかった」。
韓国人被爆者を支援してきた中島竜美(78)=東京都世田谷区=は言う。「被爆者は放射線被害に苦しみ続けることで、国の責任を求める権利意識が芽生えた。だが空襲で被災しても体に障害が残らない限り、生活が元に戻るにつれ国に責任を問う気持ちは薄れていく。しかし火種はくすぶっていた。それと戦後六十年たって、ようやく国民の権利意識が育ってきたのだろう」
星野は六月、戦争責任をテーマにした東京のシンポジウムで語った。
「イラク戦争後の政府の動向や報道を見ていると、いつか来た道を後戻りしていると、現状への危機感がある。空襲の実相を後世に伝え、二度と戦争の惨禍を繰り返さない。それが遺族会のスローガンだ」