刺 激 機銃掃射で右手失い
「被爆者は一般戦災者と比べようもないほど(被害が)ひどいと言っています。確かに今も内臓の病気に苦しんでいる被爆者はいます。だけど私も朝昼晩一日中不自由なんです」
五月十四日、東京であった「東京空襲犠牲者遺族会」の総会。豊村美恵子(79)は左手に持ったマイクで訴えた。右手はひじから先がない。
一九四五年八月三日。東京・上野駅で泊まり勤務を終え列車で帰宅途中、米軍機の来襲に遭った。機銃掃射を浴び右手を打ち抜かれ、出血多量で一時は死にかけた。一命は何とか取り留めたが右手は失った。意識もうろうの手術台で聞こえてきた「キーコ、キーコ」と腕を切断する音が、鼓膜にこびりついて離れない。
当時は年ごろの十八歳。男性用の義手しかなく、アンバランスな両手は好奇の視線にさらされた。今も買い物で財布からお金を出すのに時間がかかり、店員はけげんそうな表情を浮かべる。洗濯物はしわをのばして干せず、近所からどう見られているか気になって仕方がない。
歳月とともに体のバランスは崩れ、首の骨がずれて神経を圧迫。右手の残った部分はしびれ、血液の循環も悪く冷たくなり、胸の上にのせて左手でこすることも。三年前に自宅の庭で転んだときは、右手をかばい左側に倒れたため左手首を骨折した。
世間からの差別と偏見、思うように動かせない体―。そして戦後ずっと国への思いはくすぶり続けた。「国が起こした戦争で被害を受けたのに補償されないのは理不尽だ」。夜は眠れない日が多く、精神科にも通う。
七六年、名古屋空襲で片腕を失った被害者が国を訴えたが、八七年に最高裁で敗訴が確定。「戦争犠牲は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」と「受忍論」が立ちはだかった。豊村は「やはり個人では無理だ」と脱力感を覚えた。
だが九四年、被爆者援護法が成立した。自宅そばの市民会館で国会議員が報告するのを聞いて、涙があふれた。「国が戦争責任を認める第一歩になる。いずれ私たちにも光が当たる」
二〇〇一年三月、東京の空襲犠牲者の名前の記録に取り組んでいた星野ひろし(75)らが遺族会を結成。豊村も、二時間余りの爆撃で約十万人が死んだとされる一九四五年三月十日の「東京大空襲」で両親と姉と弟の計四人の家族を失っていた。
「泣き寝入りだけはしたくない」。〇一年八月、遺族会の会報に戦争被害の国家賠償訴訟を呼び掛ける豊村の声が載った。戦後、会員の心の奥底に沈んでいた「なにか」を刺激し始めていた。
大空襲をはじめとする東京の空襲犠牲者の遺族ら約百四十人が、国に「補償と謝罪」を求める裁判を起こす準備を進めている。「国家補償」は被爆者が戦後ずっと要求し続けてきたが、いまだ実現していない。戦後六十一年たった今、なぜ補償を求めるのか。そのためには何を乗り越えなければならないのか。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が八月十日に結成五十年を迎えるのを前に考えてみたい。