被爆61年 語り部の思い 8(完)

被爆の惨状を描いた絵本を手に話す松添さん=長崎市滑石1丁目

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被爆61年 語り部の思い 8(完) 松添 博さん(75)=長崎市滑石1丁目 惨状伝えることが使命

2006/07/19 掲載

被爆61年 語り部の思い 8(完)

被爆の惨状を描いた絵本を手に話す松添さん=長崎市滑石1丁目

松添 博さん(75)=長崎市滑石1丁目 惨状伝えることが使命

「戦争中は今では当たり前だと思われていることができなかった。平和のありがたさについて考えてほしい」。六十一年前に起こった「二十世紀最大の悲劇」を通して、この思いを伝えている。

被爆した当時は旧県立瓊浦中(現長崎西高)の三年生で、三菱長崎製鋼所に学徒動員されていた。爆心地から三・八キロ離れた滑石の自宅付近で被爆、腕と脇腹にやけどを負った。近くの救護所に行くと「生き地獄」のような光景が広がっていた。あまりのけが人の多さに、ガラスが全身に刺さったような人でも治療が後回しにされた。

戦後は家庭の事情で高校を中退。消防署に勤務して家族を養うという苦労した時期もあったが、陸上競技などのスポーツに取り組み、戦時中できなかったことに挑戦した。この間、平和運動に携わることはなかった。

転機は終戦二十九年目にNHKが被爆者の絵を募集したときに訪れた。被爆後の惨状と被爆者の救護に当たった人たちの活動を忘れてはならない。そういう思いから絵筆をとった。日本画も習っていた。描き始めると涙が止まらず、二人の少女に振り袖を着せて火葬する様子を一晩かけて完成させた。

絵は長崎原爆資料館に寄贈。それをきっかけに被爆者団体と交流した。亡くなった同級生たちのためにも、被爆後の惨状を伝えることが「生かされた者の使命」と思うようになり、一九八七年に語り部活動を始めた。

絵は「ふりそでの少女」と題され、八八年にNHKの番組でも取り上げられた。

その後も被爆体験を基に絵を描き、絵本「ふりそでの少女」を出版。語り部として話すときは、これらをパネルにしたものを使って説明することもある。これまでに延べ九万人近くの小中高生に話をしてきた。文化祭の自主制作で「ふりそでの少女」を大きな絵にしたり、事前に絵本を予習してくる学校もあり、「意欲的に学んでくれる子どもたちも多い」と話す。

人を思いやれず、親が子を殺す事件さえ起きる現代を「心の崩壊が起きている」と嘆く。「戦争や核兵器をなくそうと訴えるだけでなく、平和で自由な時代だからこそ、人を思いやる心も持ってほしい」と願う。