渡邉 司さん(74)=長崎市川上町 「命大切に」が原点
五月、渡邉さんの被爆体験を聞いた関西の中学三年の女子生徒から手紙が届いた。彼女は友人にいじめられて不登校になり、自殺を考えた経験があったという。
被爆体験を語る際、渡邉さんはいつも「命を大切にするのが平和の原点」と結ぶ。「命はそう簡単に絶ってはいけないと分かった。私は死を考えない。生きていく」―。手紙にしたためられたその決意を読み返し、「私の気持ちがきちんと伝わった。生き方を変えてくれて本当にうれしかった」と笑顔を見せる。
十三歳の時、爆心地から一・六キロの自宅で被爆した。表面的には無傷だったが終戦後、避難先の旧南高国見町多比良で頭が割れるような痛みと下痢に襲われ、口から血が流れた。病院を何度も替えたが、医者からは「ピカドン病に効く薬はない」「二、三日のうちに死ぬ」―と、”死の宣告”しかなかった。
だが、生きることをあきらめなかった。「奇跡の連続で生かしてもらっている」と思い続け、小学校の教師になった。被爆体験は脳裏から離れることはなかったが、早く忘れてしまいたいとの思いが強く、大勢の前で語ることなど考えも及ばなかった。
しかし、定年間近の一九九二年二月、勤務していた長崎市立山里小での現職最後の平和集会が転機になった。被爆体験を話せるOBや住民が少なくなる中、若手教師らが「体験を話してほしい」と持ち掛けてきた。三度断ったが、その熱意に負けた。
被爆体験を聞く児童の目は真剣だった。「子どもたちは『もっと聞きたい』と言ってくれた。心に響いた。話し続けるべきではないのか」。語り部活動の原点はここにある。
被爆体験に臨場感を加えようと、高校時代から続けている演劇を生かし、九五年から一人芝居を始めた。被爆五十周年の節目の年だった。
照明や音響など協力者の応援を受け、一人で立つ舞台。プロの俳優から「被爆者本人がやっているから迫力が違う。私たちにはとてもできない」と言われたことも。以来、公演は百八十五回を数える。
七月上旬、長崎市野母崎樺島町の市立樺島小で、三十一人の全校児童らに被爆体験を語った。
「命を大切にする。自分だけでなく、人の命も大切にする。これが平和の原点」。渡邉さんはその日も同じ言葉で締めくくった。