被爆61年 語り部の思い 5

「体力が続く限り、活動を続けたい」と語る尾畑正勝さん=長崎市平野町、長崎原爆資料館

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被爆61年 語り部の思い 5 尾畑正勝さん(88)=長崎市入船町 「核」とは「原爆」のこと

2006/07/16 掲載

被爆61年 語り部の思い 5

「体力が続く限り、活動を続けたい」と語る尾畑正勝さん=長崎市平野町、長崎原爆資料館

尾畑正勝さん(88)=長崎市入船町 「核」とは「原爆」のこと

「とにかく話していかんと若者は戦争を忘れていく」。そんな思いを抱き活動している。

爆心地から約一・五キロ、長崎市幸町の三菱造船所幸町工場で作業中に被爆。朝、空襲警報が鳴ったが、好奇心で爆弾が落ちるのを見たいと、工場内に残っていた。「来るなら来てみろという心境だった」

突如、閃光(せんこう)が走り、慌てて床に伏せた。落ちてきた屋根瓦で足にけがを負ったが、致命傷はなかった。

退職後、二十年ほど前から語り部に。知人に活動をしている人がおり、以前から興味があった。人前で話すのも苦手ではなかった。「十人いれば十通りの被爆体験がある。自分も語りたい」。被爆遺構巡りのガイドを皮切りに、今では年間五十回ほど修学旅行生らの前に立つ。

「原爆の悲惨さを話すだけでは駄目だと思う。戦争がなかったら原爆も落とされなかったのだから」。満州事変や日中戦争などにも触れる。理解できるよう話すのが大切と言い聞かせて臨む。「例えば『核』といっても子どもには分からない。『核』とは『原爆』のことですよと話せば理解してもらえる」

数年前、長崎市に来た大分県中津市の小学校の修学旅行生に話した。父親も中津市出身で墓も同市内にある。翌年、墓参りのついでに同小に立ち寄った。顔を覚えてくれていた校長に「みんなにも被爆体験を話してほしい」と頼まれ、近くの公民館で約七十人の児童に話した。いい思い出になっているという。

長年活動していると、礼状が多数届く。十年ほど前、修学旅行で来崎した滋賀県の中学生の母親からは「反抗期の息子が旅行から戻って急に素直になった」という内容の手紙が来た。「写真や遺構などを見て、原爆の脅威に衝撃を受けたのだろう」

「戦時中は何でも食べないと生きられなかった。それに比べ今の時代はどうだ」。好き嫌いせず何でも食べることや物を粗末にしない気持ちなど、人として基本的なことも子どもたちに伝えていきたいと考えている。

「若者に語ることで自分の心も若返る。体力が続く限り、元気に活動を続けたい」