被爆61年 語り部の思い 3

「若い人には自己中心的にならず、和を考えながら生きていってほしい」と次世代に平和の願いを託す山脇さん=長崎市下黒崎町、黒崎東小

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被爆61年 語り部の思い 3 山脇佳朗さん(72)=長崎市女の都3丁目 真剣に聞き入る姿に感動

2006/07/14 掲載

被爆61年 語り部の思い 3

「若い人には自己中心的にならず、和を考えながら生きていってほしい」と次世代に平和の願いを託す山脇さん=長崎市下黒崎町、黒崎東小

山脇佳朗さん(72)=長崎市女の都3丁目 真剣に聞き入る姿に感動

語り部になるつもりなどなかった。「写真や映像などメディアが豊富な今、わざわざ被爆者をひっぱり出して、思い出したくないことを話させる必要はない」。家族にも、悲惨な体験を語ったことはなかった。

十一歳の時、爆心地から二・二キロの自宅で被爆した。ガラスの破片が背中に刺さったが、大きなけがはなかった。帰らぬ父を迎えに浦上駅そばの工場へ向かった。「積み重なる死体を踏まぬよう歩いた時に見た光景と、人が腐るにおいが忘れられない」。父はすでに息絶えていた。亡きがらは、兄と弟と三人で焼いた。

戦後、長崎市で就職。定年後の一九九四年、語り部の後継者不足を報じる新聞記事を見た。「継承活動を語り部に頼る必要はない」という意見を新聞に投稿、掲載された。

一、二日後、長崎平和推進協会事務局の職員から連絡が入った。「メディアを介して伝えるのと、被爆者が語るのとでは説得力が全然違う。語り部活動に参加してほしい」と求められた。

「語り部活動を見たことがなく、初めは納得できなかった」と話す。しかし熱心な誘いに、「語る意義をこの目で確かめよう」と、実際に被爆者が語る様子を見学。「とても悲惨な話を、後ろに座っていた子も身を乗り出して真剣に聞いていた。私自身が感動した」。語ることを決意した。

現在は、小学生から社会人までさまざまな人を前に、年間約三十回講演。「原爆の悲惨な現状をただ話すだけでなく、人生を壊された心の傷を伝えたい」と話す。

「歯や目をむきだした真っ黒の死体の山。踏まないように気を付けて歩き、とっても怖かったんですよ」。五日、長崎市立黒崎東小(同市下黒崎町)の平和学習で、全校児童五十二人に語り掛けた。優しい口調で語られる原爆投下後の悲惨な状況に、子どもたちは身動きを止めて、まゆを寄せ、手で顔を覆った。

「最後に皆さんにお願いしたいのはね―」。約五十分の講演が終わりに近づいたころ、子どもたちを見詰めながら話し始めた。「『昔のことだから、自分に関係ない』とは思わないでほしいことですね。『自分は何ができるかなぁ』と考えられる人になってほしいんです」。言葉を受け止めるようにしっかりと、山脇さんの顔をたくさんの瞳が見詰め返していた。