吉山秀子さん(83)=長崎市桶屋町 彼女の顔は焼けただれ
「きれいな顔が、原爆のせいで誰なのか分からないぐらい無残な顔になって死んでいく。みなさん、こんな死に方をしたいですか」
自らの体験と被爆後の状況を、写真も使って修学旅行生や県内の小、中学生に伝えている。その活動も二十八年になる。
三菱長崎製鋼所(長崎市茂里町)の事務員だった。爆心地から一・二キロ。コンクリートでできた事務所内で被爆、腕や左まぶたにガラスの破片が突き刺さった。
戦後―。「被爆者はすぐに仕事を辞めてしまう」「被爆者から伝染病がうつる」。世間の目は冷たく、働く場も少なかった。
それでも「自分なりの生き方をしたい。何か役に立つことを」と、長崎国際文化会館(現長崎原爆資料館)で写真の展示作業などを手伝った。
被爆体験を語ろうとしなかった被爆者たちが語り部活動を始めた。被爆から三十年近くたっていた。「体験を伝えることは長崎の被爆者としての使命」。その思いから仲間に加わった。
今では、多い日で一日三校を対象に被爆体験を話す。被爆直後、負傷しながらも自ら歩き回って見た製鋼所の状況や、やけどなどで苦しむ人々…。その中でも、同じ事務所で働いていた後輩の女性について強調する。
女性はとても美しく、受付を担当していた。「被爆直後、事務所から出ると『吉山さん、吉山さん』と誰かが呼ぶ。姿を見ても誰か分からない。声で彼女と気付いたが、髪の毛は散り散りで、顔も焼けただれ、美しい姿はなかった」。女性から「私どうもなってない?」と尋ねられた。「どうもなってないよ、きれいよ」とうそをついた。「でも、許されるうそだと思う。しばらくして、彼女の魂は美しい姿のまま天国に上ったと思う」
この話を基に劇を作る学校もあり、ビデオテープが送られてくる。「私が話していることが伝わっている。それを実感する瞬間です」
被爆の後遺症で四十四回も入退院を繰り返した。二年前は心臓が止まり倒れた。今はペースメーカーを身に着けている。右足が骨粗しょう症になってからは、つえを必要とする毎日。それでも「最後の最後まで語り続ける」と言う。「足が駄目でも、口はまだ動くから」
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被爆から六十一年目の夏が巡ってくる。雨の日も、炎天下でも、高齢を押して県内外で子どもたちに被爆の実相を語り継ぐ人たちがいる。現在、長崎平和推進協会の継承部会に登録する「語り部」は三十八人。体や心に傷を負った被爆者たちだ。「なぜ語り継ぐのか」「子どもたちに何を望むのか」。語り部活動に懸けるそれぞれの思いを紹介する。
(原爆取材班)