長崎原爆資料館10年
 =歩みとこれから= 3

熱線の威力を物語る曲がった橋の名板を触る修学旅行生=長崎原爆資料館

ピースサイト関連企画

長崎原爆資料館10年 =歩みとこれから= 3 被爆資料 次世代へどう伝える

2006/04/28 掲載

長崎原爆資料館10年
 =歩みとこれから= 3

熱線の威力を物語る曲がった橋の名板を触る修学旅行生=長崎原爆資料館

被爆資料 次世代へどう伝える

「学校を休ませてください」―。島原市内の小学校教諭(50)は、児童の保護者の言葉に耳を疑った。四年生の社会科見学で、長崎原爆資料館(長崎市平野町)を訪れた翌朝のことだった。

「『被爆資料を見て、怖い夢を見た』という理由でした。人が死んでも簡単に生き返ったりするゲーム世代の影響なのか、現実の世界として受け止められなかったのでしょう」。教諭は、被爆資料が持つ背景を現代の子どもに想起させる難しさを痛感した。

溶けたサイダー瓶、熱線で気泡ができた瓦、黒焦げになった弁当箱―。常設展示室には被爆の熱線、爆風の威力を物語る資料や写真など九百八点が展示されている。

「人間の日常的な営みを感じさせる沖縄戦の資料は、心震わせずにいられない。だが、被爆資料は通常火薬の何十倍といわれる核攻撃の事物。人間の予想を超え、いきなり極限的な恐怖をもたらす」。被爆者問題を研究する高橋眞司長崎大教授はそう指摘し、子どもたちの見学前後に教師や保護者をサポートする必要性を説く。

「何か物足りない。ガラスケースで遮断され、美術品みたい」―。被爆者の濱崎均さん(75)は、同資料館の前身である旧長崎国際文化会館と比べ、資料と隔絶された印象を抱く一人。「(旧館は)血にまみれた白衣がそのまま置かれていた。触ろうとしても触ることができない迫力があり、それが原爆の恐ろしさ。映像世代の子どもたちがリアリティーを持てる工夫をしてほしい」と話す。

同資料館には常設展示のほか、遺族や関係者から寄せられた被爆資料約一万点が地下収蔵庫に保管されている。年数回、公開されるが、大半は来館者の目にとまる機会はない。

被爆資料約一万点と被爆写真約三千点は二〇〇四年までにデータベース化が完了した。だが、データベースを一般公開している広島市の原爆資料館と違い、業務に限った閲覧にとどまっている。

「展示方法以前の問題として、収蔵品の全体像を知らせる必要がある。被爆者の語りを補完するのが被爆資料。できるだけ当時に近い体験を感覚的に理解できる活用法が望ましい」。戦争遺跡や被爆遺構保存について研究する長崎総合科学大の木永勝也助教授はこう提起する。

被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者の平均年齢は七十三歳(〇五年三月現在)。この世を去る被爆者が相次ぐ一方、戦争、原爆を知らない世代へ「あの日の長崎」をどう伝えるか。