高島の「4階建て」 終戦の年、激しい空襲
平戸市最南端の宮ノ浦漁港から約一・六キロの距離にある「高島」。十世帯四十人が暮らし、教職員を除き全世帯が漁業で生計を立てている。磯ではイシダイ、クロ、ヒラスズキの大物が釣れることで有名。戦時中、この島に沿岸防衛のための海軍施設が造られた。
風化が進む施設のうち、断崖(だんがい)に立つ建造物はひときわ目立つ。平戸南部や上五島海域を監視したとされる見張りやぐら兼兵舎。高さは三十メートル近くある。コンクリート造りで堅固、屋上には高射砲を据えたとみられる台座も残る。島民らは「四階建て」と呼んでいる。陸上からそこへ行く道には草が生い茂り、近づくことが難しい。
西盛昭さん(74)=同市野子町=は一九四三(昭和十八)年ごろ、通っていた野子国民学校の同級生数十人と四階建ての建設作業に当たった。担任に突然命じられての参加。もちろん奉仕だった。
高島に渡り数日間、セメントと混ぜ合わせる小石を海岸で拾い集め、袋に入れて四階建ての建設現場へ運んだ。外観はほぼ完成していた。「重労働だった。『おまえは何往復した』と現場担当の軍人に数えられていたから気を抜けなかった」
高島から、佐世保鎮守府が置かれていた佐世保軍港までは海路三十数キロの距離。旧日本海軍は米海軍に制海権を奪われるのを恐れ、離島部の防衛力強化に力を入れたとされる。だが、高島の施設に触れた記述は「収蔵史料の中に見当たらない」(海上自衛隊佐世保史料館)。
西さんによると、当時の高島には海軍の兵隊が二百人ほど常駐していた。部隊名は「佐世保防備隊」。工事を請け負っていた業者は「金子組」。昼食時は演芸の時間となり、上官に命じられた若い兵士が歌っていた。「建設現場で働く民間作業員と日本人徴用工は仲が悪かった。終戦間際の物資不足を考えると、高島の海軍施設が十分に機能を果たしたとは思えない」。そう回想する。
終戦の年になると、高島や宮ノ浦一帯は米機の攻撃にさらされた。幸い民間人の犠牲はなかった。高島で生まれ育った柴山英行さん(67)=同市野子町=は、グラマンの攻撃を受けた木造船が燃え盛りながら沈没する一部始終を目撃した。爆弾投下による水柱も上がっていた。高島の兵舎に生存者十数人が運び込まれたが、後日、人骨が海岸に次々と打ち上げられた。
「終戦近くには高島でも防空壕(ごう)に逃げ込む日々だった。機銃掃射が恐ろしく、耳をつんざく爆音を覚えている。戦後、友達と一緒に『四階建て』でよく遊んだが、壁に機銃掃射の跡がはっきりと残っていた」と英行さん。高島近くの尾上島の灯台も、敵機の機銃掃射ではちの巣状態になっていた。
十年ほど前、長野県からやって来た老夫婦が宮ノ浦漁港の「丸銀釣センター」(柴山茂樹代表)を突然訪れた。夫は「十九歳のとき、高島の防備隊に詰めていた」と言い、妻と連れ立って高島に渡り数時間過ごした。「『ずっと高島に行きたかった』という言葉が印象的だった。本当に懐かしそうだった」と柴山代表(57)。その後、男性から連絡はないという。
高島の軍事施設 島内には「4階建て」のほか兵舎が2棟立っていた。山頂周辺には大砲や敵機を照らす探照灯が据え付けられ、潜水艦の航行を探知する特別な装置もあったという