愛野の「悲劇」 児童14人が犠牲に
「けがをした子が何人もいて、横ではおなかにガーゼを詰め込まれた男の子が『痛かー、痛かー』と泣いていた。翌朝には亡くなっていた」
一九四五(昭和二十)年七月三十日。愛野村国民学校(現南高愛野町立愛野小)近くに落とされた爆弾で頭に重傷を負った小川ツルヨさん(71)=当時五年、佐賀県伊万里市=が搬送された病院で見た光景だ。
各地で空襲が激化、村では赤痢もはやり、臨時休校中だった学校は注意を伝えるため児童を登校させた。校庭で訓練中に警戒警報が出され、約三百メートル離れた丘陵地の雑木林にみんなで避難して間もなくだった。
「竹やぶで『ヒューン』という音を聞いた後、気を失った。かぶった泥や竹の中から助け出され、わらを敷いた校庭で応急手当てを受けてから戸板で病院に運ばれた」と小川さん。「切れた頭頂部を縫ってもらい三日ほど入院後、自宅から約三十分の道を父親に背負われて約一週間通院した。仲の良かった近所の女の子も死んだ」
愛野小に残る空襲被災関係書類によると、十四人の児童が犠牲になった”悲劇”が起きたのは午前十一時ごろ。米軍の双発中型爆撃機、小型戦闘機計十機がいったん上空を通過した後、戦闘機二機が超低空から六発の爆弾を投下し、そのうちの一発が雑木林そばでさく裂。百二十―百三十人の児童のうち約十人が土砂を浴び、約四十人が前の水田に吹き飛ばされた。
「戦闘機の『ブーン』という音がして、気が付いたら約五十―六十メートル先の田んぼの中。泥まみれで座り込んでいた。立とうとしたが立てなかった。周りで泣きわめいていた声が今も耳に残っている」と証言するのは頭や足などをけがし重傷だった横町勘二さん(72)=当時高等科一年、愛野町=。丘陵地の防空壕(ごう)入り口付近にいたため爆風を受けた。奥にいた児童は無事だったという。
学校に駐屯していた兵隊や駆け付けた父母、村人らが救助に当たった。水田を挟み雑木林と反対側の自宅にいた大石キクノさん(84)は爆弾が落ちたと聞き、水田のあぜを走った。祖母が長女=当時(2つ)=をおぶって現場近くに行っていたからだ。「現場では大きな穴が開き、煙がたち、木と木の間に頭を突っ込んで死んでいる子もいた。兵隊らが懸命に子どもを掘り出していた」。祖母と長女は無事だった。
「男の子の遺体を戸板に載せて四人で約四キロほど離れた家に運んだ。奥で小さな子に乳を飲ませていた母親はとうとう表に出てこなかった。その家では兄弟が犠牲になったそうで、私たちに礼を言う気力もなかったのでしょう」。大石さんは振り返る。
生き残った中には、現在も「後遺症」に悩まされる人がいる。左前頭部に負った深さ四センチほどの傷のあとが残る久木田勝彌さん(67)=当時一年、愛野町=は「時々痛む」。小川さんは「頭に何もかぶらずに太陽の下に出ると、頭痛に耐えきれなくなる」。
足の傷あとをなぞり記憶を手繰り寄せながら「何もないのに殺し合う。親を失い、子を失う。戦争は二度と嫌だ」と語気を強める横町さん。当時、搬送された村の病院で見た現象がまぶたに焼き付いている。「窓の外がピカッと光り、長崎の方にきのこ雲が広がっていくのが見えた。『何じゃ、あれは』と思っていると流れてきた雲で愛野の上空も暗くなった」
六十年の歳月で悲惨な体験も薄れがち。二十年前、「島原半島の戦災誌」に手記を寄せた女性は「記憶が途切れ」(関係者)、空襲で負傷した記録がある別の女性=当時一年=は「覚えていない」。
今年四月、愛野小に赴任し、空襲の歴史を知った宮崎洋子校長は九日の平和集会で三百六十九人の全校児童に語り聞かせ、命の大切さを考えてもらう予定だ。(報道部・石田謙二)
愛野空襲 記録によると、死亡した児童14人のうち7人は即死で、ほかに10人重傷、8人軽傷、24人が何らかの影響を受けた。14人の名前は「被爆児童」として愛野小横にある忠魂碑裏の銘板に「大東亜戦争戦没者」ら約230人の軍人・軍属名と一緒に刻まれている。