佐世保大空襲 B29 市街地に「火の雨」
一九四五年六月二十八日。佐世保は梅雨の大雨に見舞われていた。
「夕方前からバケツの底が抜けたような雨だった。毎晩、いつでも避難できるよう靴を履いたまま玄関で横になっていたが、こんな日はさすがに空襲はないだろうと高をくくり、久しぶりに部屋に布団を敷いて寝た」
佐世保空襲を語り継ぐ会代表の新貝武史さん(76)=佐世保市今福町=が証言するように、多くの市民がその夜、安心して眠りについた。雨雲の向こうにB29爆撃機の不気味なプロペラ音が近づいているとは思いもせずに。
つかの間の平穏を打ち破るように敵機が来襲。「慌てて外に飛び出すと、街は火に包まれていた」。雨はいつしか「火の雨」に変わっていた。B29爆撃機が落とした無数の焼夷(しょうい)弾だった。逃げ惑う人で街は修羅場と化した。午後十一時五十分すぎから約二時間に及んだ空襲で、千人を超える命が奪われた。「油断し、逃げ遅れたことも被害を拡大させたのではないか」。新貝さんは言う。
猛火の煙に巻かれ窒息死した犠牲者が多かった。木原良子さん(78)=同市大黒町=の姉もその一人だ。木原さんは家族と防空壕(ごう)に駆け込んだ。「次第に息苦しくなり、意識がもうろうとしてきた。誰かに水を掛けられわれに返った時には、近くの道路に数人と寝かされていた。母も意識を取り戻したが、姉は二度と目を覚ますことはなかった」。焼け野原の中、姉の遺体を広場に運び二日がかりで焼いた。戦争を恨んだ。
佐世保は同年四月と五月の空襲でも犠牲者が出ている。戦後三十年の七五年六月二十九日、語り継ぐ会が主催し、佐世保空襲の犠牲者を追悼する初めての合同慰霊祭が開かれた。一連の空襲犠牲者数は当時、民間人だけで「千三十人」とされていたが、氏名は市役所でも二百人ぐらいしかつかんでおらず、同会の要請で市も調査を開始。慰霊祭当日には約五百人の氏名や住所が分かった。
小学校教諭だった岩村秀雄さん(76)=同市天神町=の元を同会の徳永辰雄さん=故人=が訪ね、慰霊祭への出席を誘ったのは七五年春ごろ。岩村さんは広島の海軍兵学校にいたため難を逃れたが、六月の空襲で母や姉など家族五人を失った。戦後、家族がどのような最期を遂げたのか調べたが手掛かりは得られないままだった。
慰霊祭を機に、佐世保空襲犠牲者遺族会が発足。岩村さんもメンバーとなり、会は犠牲者の実態調査を始めた。その中で、かつて同じ町内だった女性の証言などから岩村さんの家族についての情報が分かってきた。高等女学校に勤めていた姉は御真影を守るため火の中、学校へ向かい、幼かった姉の子どもも後を追い掛け命を落としたらしい。
遺族会はその後も病院などに協力を求め、当時の死亡診断書や検視証明書、火葬台帳などを手掛かりに調査を続けた。その結果、一連の空襲で亡くなった民間人犠牲者数は「千三十人」を上回り、これまでに千二百二十五人が判明した。
空襲では軍人、軍属も大勢死亡したと考えられているが、実態は軍事機密に属し、岩村さんも把握できていない。遺族会代表となった岩村さんは、千二百二十五人が収められた犠牲者氏名録を手にこう語った。
「空襲の日に佐世保に出掛けたまま行方不明になった身内がいる、との問い合わせが今も絶えない。名簿に載っていない犠牲者がまだいるはず。その死を無駄にしないためにも『声なき声』を救ってあげたい。戦後六十年がたっても、私の中ではまだ戦争は終わっていないのです」
佐世保大空襲 佐世保を狙った数度の空襲の中でも最も被害が甚大だった。市などによると、焼失面積は約178万平方メートルに及び、当時の市内全戸数の35%に当たる約1万2000戸が全焼。市役所、公会堂、佐世保警察署など主要な建物は軒並み焼失した