B29墜落 「鬼畜」は少年の面影を
有明海を望む諫早市小長井町小川原浦の海岸近くに高さ二メートルほどの鎮魂碑がある。一九四四(昭和十九)年、日本軍機の攻撃を受け約五百メートル沖に墜落した米B29爆撃機の搭乗員十一人を追悼するため九三年に建立された。ジョセフ・キルブルー機長ら全員の名前を日本語で刻む。「安らかに」の言葉などを英語で記した金属板もはめ込まれている。
日本機の「体当たり」攻撃で墜落したとされるB29。搭乗員の正確な人数や名前などは諫早市高来町の元陸軍大尉、故荒川斗苗さんが米海軍佐世保基地司令官を通じて調査し判明。さらに同市泉町の医療法人犬尾内科理事長、犬尾博治さん(71)が当時の状況を詳細に追跡調査し、八五年の「諫早文化」第十六号に発表している。
それによると、四四年十一月二十一日午前十時ごろ、中国四川省成都を飛び立ったB29百九機のうち六十一機が大村海軍工廠(しょう)を爆撃。大村航空隊などの零戦、雷電、月光計五十九機が迎撃した。ここで坂本幹彦中尉=当時(22)、佐賀県出身=の零戦などと交戦したB29が墜落。搭乗員の遺体は集めて墓地に埋葬、戦後に米軍が引き取った。B29の機体は引き揚げて大村に搬送された。
坂本中尉の遺体は高来町の多良岳山中で四五年一月に発見。その場所に荒川さん、犬尾さんらが九二年、慰霊碑を建立。翌九三年、荒川さんの働き掛けでB29墜落地である小長井町内の元石材販売業、馬渡廣雄さん(87)が所有地に鎮魂碑を設置した。
鎮魂碑
馬渡さんは敗戦まで約十年旧陸軍に在籍、二十代の大半を中国の戦地で過ごした。「自分も戦死する運命と背中合わせにいたんだと考えた。生きて帰った者の務めという気持ちもあった」。鎮魂碑設置を決意したわけを語る。
敗戦後約二年、戦死者の遺族に遺骨・遺品を引き渡すのを担当。石や貝などを遺骨代わりに入れた箱を差し出した無念さ、受け取る遺族の悲しみが今も忘れられないという。毎年十一月二十一日は鎮魂碑に参る。
B29墜落を住民はどう受け止めたか。鎮魂碑の前にある「昭和十九年 秋」と題した詩碑が伝えている。詩は小長井町出身の詩人、木下和郎さん(三二―九〇年)が六七年に発表した作品。
「尾翼だけが海面に突っ立っていた/トラックの上には すでに/引揚げられた飛行士がころがしてあった/どよめく群集に向って 髪の毛をつかみ/ぐいとあげられたその顔は 桜色の/少年のおもかげをもっていた/はじめて鬼畜をみた/やすらかな ねむりの姿勢だった/その頬に消防団員の平手がとんだ」(抜粋)
「軍国少年」だった十二歳の木下さん。「鬼畜」と教えられていた敵と初めて会った時の、想像と現実の隔たりに対する戸惑いにも似た気持ちが表現されている。
B29墜落を調べた犬尾さんは当時十歳。「小長井に敵の飛行機が落ちたと聞き、見に行った。その三カ月前の夜には諫早が空襲されていた。だから落ちたと聞いてうれしかった」と語る。
海岸近くの道路から数メートル離れた倉庫前の地面の上に、裸の遺体四体が二体ずつ縦に道路と直角に並べて置かれていた。恐怖感と興味で人だかりの間からのぞいた光景。「顔は思い出せない。白人を見たのは生まれて初めて。皮膚が白色ではなくピンクだった」。海面に現れた銀色の垂直尾翼と斜めに突っ込んだ機体も忘れられない。
「人が殺し合う時代に比べ今の時代がどれだけ平和かかみしめたい」と南方の戦地を七一年から訪ねる犬尾さん。目的も分からないまま異郷で死んだ人たちをしのぶ。小長井町沖に落ちたB29搭乗員の遺族とともに追悼ができればとも願ってきた。その日に備え鎮魂碑に英文金属板もはめ込んだ。「いつか一緒に」と思い続ける。
B29 米国が開発した大型長距離爆撃機。全長約30メートル、翼幅約43メートル、航続距離約4500キロ、定員11人。製造はボーイング社。第2次大戦末期、最初は中国から、後にサイパンやグアムなどから高空を飛来し東京など各都市、県内では佐世保市などを爆撃し大きな被害を与えた。広島、長崎に原爆も投下した。